
サッカーが導く人生と結ぶ絆。ボールがくれた縁を、これからも。ーー岩沼俊介【UNSTOPPABLES】#6
2025年4月11日
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「サッカーを続けていると、絶対どこかでまた出会うんです。だからこそ、人との出会いは大切にしていきたい」
サッカーの世界は広大だが、驚くほど狭いものでもある。この世界に身を置くものにとって、かつて共に汗を流した仲間や恩師との再会は、決して珍しいことではない。むしろ、それが必然であるかのように感じる瞬間がある。彼のキャリアはその生き証人であり、サッカーの真髄は勝利だけではなく、つながりにある。
【UNSTOPPABLES~止められない奴ら~】
昨シーズン、関東2部への昇格を決めたSHIBUYA CITY FC。その栄光の背後には、勝利以上のものが隠されていた。選手たちの揺るぎない自信と勢いは、彼らの人生に深く刻まれた歩みから来ている。勝利への執念、それを支える信条。止まることを知らない、彼らの真の姿が、今明らかになる。
第6回は、チーム在籍最年長のひとり、岩沼俊介。長いキャリアと、異国の地で学んだつながりの大切さが、どれほど彼の人生に深い影響を与えているのか。その真実を知れば、サッカーの本当の魅力が見えてくる。
岩沼 俊介(いわぬま しゅんすけ)/ DF
群馬県前橋市出身。1988年6月2日生まれ。174cm、68kg。幼少期は地元・前橋市のクラブチームでサッカーを始め、高校は全国屈指の強豪・前橋育英高校へ進学。高校1年時からボランチとしてトップチームでプレーし、高校3年時の選手権での活躍が注目をあび、北海道コンサドーレ札幌に加入。1年目は出場機会を得られず、ブラジルの提携チームであるECヴィトーリアに短期留学。3年目から主力としてチームを引っ張る存在に。その後は松本山雅FC、京都サンガF.C.、AC長野パルセイロと、数々の舞台で経験を積み重ねた。契約満了後はFCマルヤス岡崎に加入。2022年シーズンからSHIBUYA CITY FCに所属し、的確な状況判断と左利きの高精度なパスが特徴。経験豊富な守備の要として、ピッチ内外でチームを支える存在。
異国の地・ブラジルで見た、世界の現実
北海道コンサドーレ札幌、松本山雅FC、京都サンガF.C.、AC長野パルセイロ、FCマルヤス岡崎。この渋谷に降り立つまで、いくつものユニフォームに袖を通し、数々のプロの舞台を渡り歩いてきた岩沼。その経験と技術は今もなお健在で、相手との駆け引きや、状況に応じた的確な対応力が際立っている。
彼のキャリアは、高校卒業と同時にスタートした。まだ10代の少年が、期待のルーキーとしてJクラブの門を叩いた時代。今でこそ大学4年間で成熟し、確かな力を備えてプロ入りするルートが一般的になってきた。しかし、岩沼と同じ時代でサッカーにすべてを懸けてきた少年たちは、18歳で夢に手を伸ばすことを、当然のように選んでいた。
「俺もずっとサッカー選手になりたいと思っていたし、時代的に高卒で行く人が多かった。むしろそれが自然なくらい。マー君(三原雅俊ヘッドコーチ)も同い年で高卒で入っているけど、周りもそういう人が多かったです。大卒で入る人の方が珍しかったですね」
そう当時の状況を語る岩沼だが、最初の歩みは決して平坦ではなかった。「一番大変だったのはプロ1年目の札幌時代だった」と語る。
高校3年の時点で練習に参加した岩沼の目に映ったのは、やはりプロのリアル。
「フィジカルの強さが全然違った。高校では実力が通用しても、プロでは全然通用しない。サッカーだけでお金をもらうっていう、本当の厳しさを知った期間でした。高校までは、試合に出るのが当たり前の生活だったのに、加入して最初の丸二年は出場機会がなかった。めちゃくちゃしんどかったですよ」
プロという世界は、夢の延長線上にあるようで、いかなる甘さも許さない現実だった。高校時代、当たり前のようにプレーしていたピッチが、突如として遠くなるのを感じていた。

そんな彼に訪れた、一つの転機。それはプロ1年目、札幌に加入して間もない19歳の岩沼に、クラブから告げられたのは、予想もしていない言葉だった。
「ブラジルに行ってこい」
札幌と提携していたブラジルのクラブECヴィトーリアへの、4か月間のサッカー留学。同行したのは、同じく若手でチームメイトだった西大伍(いわてグルージャ盛岡所属)。
「未だに覚えてるんですけど、練習後にいきなりダイゴくんと呼ばれて。俺は高卒1年目で、しかも行き先がブラジルだったからもちろん迷った。でもダイゴくんは『行きたい!行こうよ!』ってあまりにも簡単に言うもんだから『マジか』って思いましたよ(笑)でも、そこから1ヶ月後にはもう向かってましたね」
地球の裏側、日本の真反対に位置するブラジル。10代の少年にとっては、現実味のない話だった。異国の地で、言葉も文化も異なる中、唯一の共通言語はサッカーだけ。若き二人は遥か海の向こうへと旅立った。
そして、そこで待っていたのは想像をはるかに超える現実だった。まず、立ちはだかったのは言葉の壁。ブラジルはかつての植民地時代の影響もあり、使用される言語は英語ではなく、ポルトガル語。アルファベットの並びすら見慣れない言葉が、看板や会話、そこら中に溢れていた。
「当然全くわからなかったです。毎日ダイゴくんと一緒に本で勉強しながら、挨拶やサッカーで使いそうな言葉を覚える日々。めちゃくちゃ大変でした」
想像してみてほしい。一歩外に出れば、自分の言葉がまるで通じない。誰の言葉もわからない。旅行ならまだしも、暮らすとなれば話はまったく別だ。生活のひとつひとつが試練となり、英語でも通じないその環境に、心も体も試される日々。生きていくだけで、相当な労力を使うだろう。加えて岩沼を苦しめたのは、やはり生活面の問題。
「サッカーをやっている選手たちはもちろんめちゃくちゃレベルが高い。でも行った場所が、昔のアフリカ系の奴隷が行きついたような植民地的な感じで。黒人系の人たちが多く、外では上半身裸の男の人が普通に歩いているんですよ。しかも、サッカーをしてない人でも、なぜかみんなマッチョみたいな感じで(笑)」
岩沼の言葉からは、当時の衝撃と戸惑いが滲み出ていた。見慣れた日本とはまったく異なる環境。目の前に広がる光景は、まるで映画のワンシーンのようであり、現実のものとは思えないほどの違和感に満ちていた。
「夏に行ったとはいえ、寮のシャワーは水しか出ないし、部屋はタイル張りで、ずっとアリやトカゲみたいなのが歩いていたり…」
清潔で整備された日本の環境から一転、向かった先はまるで別世界。心身ともに疲弊し、過酷な現実と向き合わざるを得なかった。さらに岩沼を襲ったのは孤独だった。
「最初はダイゴくんと2人で行ったんですけど、彼はチームの事情で3週間ぐらいで先に帰っちゃって。その後の3か月はずっと一人で過ごしました」
言葉も通じない、生活も厳しい、そして頼りになる人もいない。極限の環境の中で、まだ10代だった少年は、ひとり生き抜く道を探さなければいけなかった。
「だいぶしんどかったですね」今ではそう笑って振り返るが、当時の彼にとっては、それは笑い話どころか、生きることすら試されるような毎日だった。しかし、どんなに厳しくても、チームを離れてその地に来た以上、ただ何もせず時を過ごすわけにはいかない。そんな過酷な環境の中で岩沼が唯一、心を預けられたものがあった。
それがサッカーだった。
「サッカーって、どこでやってもルールもやることも一緒。自然とサッカーをしながらみんなと仲良くなっていったんです。オフの日にはどこか連れてってくれたり、一緒に遊んだりもして。言葉はあんまりわかんないけど(笑)昔Jリーグにいた選手がいて、カタコトで少しだけ日本語が話せる人もいて。その人が気を遣ってくれて海に誘ってくれたり、たまにご飯にも連れてってくれました。あのときはかなりきつかったけど、今思えば、すごくいい思い出です」
サッカーは、世界共通の”ことば”だった。言葉も通じない、育った環境も文化もまるで違う。けれど、ピッチにボールが転がれば、それだけで人と人をつなぎ、心と心を通わせてくれる不思議な力がそこにはあった。

そして岩沼は世界の現実をその目で見た。整備されたグラウンドも、揃ったユニフォームもない。代わりに目の前に広がったのは、壊れかけた壁と、裸足で駆け回る少年たち。
「向こうの人たちって、本当に貧しい生活を送っている。日本ってやっぱり裕福なんだなって実感しました。何でも与えられるというか、ボールなんて当たり前にあるし。しかも行った先の近くが、本当にみんなが想像するようなスラム街と呼ばれる場所で。子どもたちがズボンだけ履いて、裸足で、ひたすら壁にボールを蹴っていたんです」
そんな光景に、彼は心を深く打たれた。豊かさを当然のように享受してきた日本では決して見られない、貧困、混沌、喧騒。そのすべてが溶け込んだ街で、裸足の子どもたちは笑いながらボールを追いかけていた。日本では味わえない、けれども確かにサッカーの原点とも呼べるようなエネルギーがそこにはあった。
「実際にその光景を目の当たりにした時は、本当に衝撃的でしたね」
日本で当たり前にあるものが、他国ではどれほど希少で、尊いものなのか。岩沼はその当時の感情を多くは言葉にしなかった。だが、サッカーが世界を超えてつながる力を持っていることを実感しつつも、同時に自分の小ささを痛感せずにはいられなかっただろう。そしてその時に感じた衝撃はやがて、彼のサッカー観、そして人生観を大きく変えていくことになる。
サッカー人生、まだ終わらない戦い
渋谷に加入して今シーズンで4年目を迎える岩沼は、ベテランとしてチームの成長を見守り続けてきた。年齢でいえば、最年長の渡邉千真に次ぐ年長者であり、今やその立場はチームの支柱ともいえる存在だ。そんな彼はこのクラブの変化を、誰よりも近くで見てきた。
「自分が入ったときはもう33歳くらいで、それこそ裕介さん(田中裕介スポーツダイレクター)も選手だった時代で。当時は、まだ土日しか練習に来られない選手もいたし、平日は仕事で顔を出せない人も多かった。出欠を取って、それをもとに練習を組むチームだったので。グラウンドも今みたいに都内の練習場を使えることが少なくて、いろいろな場所を転々としていました。だからこそ、環境の面でもどんどん成長していると感じます」
かつてJリーグの舞台でプレーしていた岩沼。その経験が彼の視野を広げ、そして気づかされた。社会人サッカーを続ける人たちの、底知れぬ情熱に。
「Jリーグとは違う、社会人サッカーをしている人の、『本当にサッカー好きじゃないとできないな』っていう凄さを知りました。Jリーグはもちろん素晴らしい舞台ですが、社会人サッカーを続ける選手たちが持つ純粋なサッカーへの愛情は、今までJリーグにいる時には気づけなかったことです。仕事と両立させながら、土日の休みを削ってサッカーに情熱を注いている姿を見て、心からサッカーが好きなんだなと毎日感じています」
プロの舞台では味わえなかった経験から得た気づきと、サッカーを心の底から愛する人々の情熱。長くサッカーに関わってきたからこそわかるものだ。そして、その経験を活かし、今度は自分が次の世代に伝える番だ。
「僕は今までJリーグでやってきた経験があるので、この渋谷からJリーグを目指す選手に向けて、どういうことが必要なのか、どんな振る舞いが必要かということは伝えることができるかなと。若い選手たちも入ってきたので、うまく関係性を築きながら、ベテランと若手がしっかり融合できるようにチームを回していきたいです」
若手とベテランの架け橋に。そして、チームのこれからにもしっかりと目を向けている。
「去年は目標が昇格だったので、そのために毎日やってきました。自分は2022年からここにいますけど、1回も昇格できていなかったので、それが達成できて安心しました。
このチームは社会人リーグの中でも恵まれた環境にいます。あとは、選手たちとスタッフがしっかりと一体感を持って進んでいけば、今年も昇格ができると思います。そんなに簡単なものじゃないこともわかっているので、謙虚な気持ちでやっていけば大丈夫かなと」
昇格は簡単ではない。プロの舞台で幾度なくその瞬間を味わってきた岩沼だからこそ、その重みを理解している。整った環境に満足するのではなく、そこにどう向き合い、結果に結びつけるか。シーズンを左右するのは、一体感の有無、そして日々の積み上げの質だと語る。
そして、彼には密かな野望がある。J1、J2、J3、JFL、東京都リーグ1部、そして今年戦う戦場、関東2部リーグ。日本のリーグシステムにおいて、彼がまだ経験していないのはただひとつ、関東1部リーグだけ。
「やってないの、そこだけなんです。だから、どうせサッカーをやるならそこも制覇したい」
ベテランと呼ばれる年齢に差し掛かり、プレーする時間も限られている中で彼の目には一切の衰えが見えない。

「まずは試合に数多く出たい。これは毎年自分の中で強く意識してやっていることでもあります。特に年齢を重ねる今だからこそ、まだ自分はできるっていうことを証明できればいいなと。だから練習も休まずやっていきたいです(笑)みんなから『ヌマさん、いつも休んでるじゃん!』って思われないように、上の年の自分が全力で取り組んで、そういうところから下の選手には気持ちを見せていきたいです。チームが持つ、もっと見ている人をワクワクさせながら、上をどんどん狙っていく向上心と同じように、自分もまだまだやっている限りは上に行きたい」
年齢を重ねても立ち止まるつもりはない。まずは練習から手を抜かず、言葉より行動で示す。限られた時間の中で、岩沼はまだまだチームの先頭で走り続ける。
時を超えて結ぶ絆
そんな熱を帯びた姿とは対照的に、岩沼はプライベートの時間を何よりも重視しているという。「人間として生きる上で、やっぱりプライベートが楽しくないとダメですね。プライベートが楽しくないとサッカーも充実できないです」そう語る彼の表情は、どこか少年のように柔らかい。日々の激しい練習や試合の後、心からリラックスできる場所が必要だと感じているからこそ、生活のバランスを重視している。
その言葉の通り、休日は街に出てカフェに足を運び、買い物を楽しむ。そこには戦術やプレッシャーもない、ただ心のままに会話を楽しむ世界が広がっている。そこで語らう相手は、サッカーとは無縁の仕事をしている人や、まったく違う価値観を持つ人たちばかりだ。そんな時間が、サッカー一筋で生きてきた岩沼にとっては、新たな発見の連続だ。
「夢中になりますね、ああいう時間。サッカーに関わる人と話すのも楽しいですけど、違う世界の話を聞ける時間はやっぱり楽しいです。友達がやっているカフェに行ったり、いろんな人と話していると、そこに来たまた違う知り合いの方ともどんどん新しいつながりが生まれます」
ピッチを離れた時間にも、岩沼は人とつながり、広い視野を持ち続けている。それはサッカーの世界とは異なるが、彼にとっては同じくらい価値のある時間であり、その一つひとつが彼の人生を豊かにしていく。

「1回会って終わりじゃなくて、またご飯とか行ったり、連絡取ったりして、相手のやってることとかを聞いたり、話したり。『それめっちゃ面白そうだな』と思って、将来自分のやりたいことがそっちに傾くかもしれないし、一緒に何かを始めることだってあるかもしれない。だから人とのつながりは本当に大事にしていきたい」
それはプライベートだけではない。サッカーでも同じだ。過去に交わした握手が、思いがけず再会に変わることがある。ある日の練習試合では、かつて札幌で共にプレーした仲間と、十数年ぶりの再会を果たした。現在は東洋大学のGKコーチとなった彼と、笑いながら連絡先を交換したという。
「これだけサッカーを続けていると、こういうことが本当にあるんですよね。絶対どこかでまた出会うんです。だからこそ、人との出会いは大切にしていきたい」
ボールひとつで生まれる縁は、試合の中だけに限らない。カフェで交わした会話、試合後の軽い言葉。どんな瞬間も、岩沼にとっては大切なつながりであり、次へのステップだ。ピッチの上はもちろん、日常の中で笑い合い、語り合う時間もまた、彼にとってはかけがえのないプレーの一部だ。

あの日、学んだことは今も変わらない。異国の地で言葉が通じず、孤独に打ちひしがれたあの夏。救いの手を差し伸べてくれたのは、サッカーと、心を寄せてくれた人たちだった。
つながりがあるから、サッカーを続けられる。つながりがあるから、生きることが何倍にも面白くなる。サッカーが教えてくれたのは、ただ勝つための術ではなく、人と出会い、共に人と生きる力だった。
その教訓を胸に、人生を終えるその日まで岩沼俊介は走り続ける。ピッチの上でも、外でも、人との交差点の真ん中で。
取材・文 :西元 舞
写真 :福冨 倖希
企画・構成:斎藤 兼、畑間 直英
SHIBUYA CITY FC
渋谷からJリーグを目指すサッカークラブ。「PLAYNEW & SCRAMBLE」を理念に掲げ、渋谷の多様性を活かした新しく遊び心のあるピッチ内外の活動で、これまでにないクリエイティブなサッカークラブ創りを標榜している。
渋谷駅周辺6会場をジャックした都市型サッカーフェス「FOOTBALL JAM」や官民共同の地域貢献オープンイノベーションプロジェクト「渋谷をつなげる30人」の主宰、千駄ヶ谷コミュニティセンターの指定管理事業など、渋谷区での地域事業活動も多く実施している。
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