
誰かのために、笑顔のために。誇りと優しさが生む頂点とはーー渡邉尚樹【UNSTOPPABLES】#8
2025年4月29日
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「僕ずっとニコニコしてるでしょ。だからハッピー男だね」
取材中、渡邉の表情には終始、穏やかな笑みが浮かんでいた。目尻が自然に下がり、口元はどこか優しく上がっている。彼の明るさ、そして場の空気を和ませる才能はまさに天性のものだ。トークも巧みで、冗談を交えながら話す姿に、不思議と引き込まれていった。
【UNSTOPPABLES~止められない奴ら~】
昨シーズン、関東2部への昇格を決めたSHIBUYA CITY FC。その栄光の背後には、勝利以上のものが隠されていた。選手たちの揺るぎない自信と勢いは、彼らの人生に深く刻まれた歩みから来ている。勝利への執念、それを支える信条。止まることを知らない、彼らの真の姿が、今明らかになる。
第8回は副キャプテン、渡邉尚樹。チームを支えるその明るさとエネルギーには、自らの信念が深く根付いている。常に周囲にポジティブな影響を与える理由とはーー。
渡邉 尚樹(わたなべ なおき)/ DF
埼玉県川越市出身。2000年11月14日生まれ。184cm、79kg。中学時代は坂戸ディプロマッツFCで過ごし、高校はヴァンフォーレ甲府の下部組織へ。高校3年時には2種登録指定選手にも選ばれた。その後は亜細亜大学へ進学し、4年目には主将として11年ぶりの関東昇格を成し遂げ、リーダーシップと勝負強さを証明した。卒業後はFCティアモ枚方を経て、昨シーズンよりSHIBUYA CITY FCに加入。得意とするロングフィードで局面を切り拓き、その恵まれた体躯を活かして守備に安定をもたらす。今シーズンは副キャプテンとしてチームを支える柱となっている。
夢を絶たれ、それでも
5歳から始めたサッカー。共働きの両親のもと幼稚園に通っていた渡邉は、保育園のように長時間預かってもらえないことから、いわゆる”預かり保育”としてサッカースクールに通うことになった。
今でこそ温厚な性格で物腰が柔らかい渡邉だが、幼少期はまったくの別人だったという。泣き虫で、気に入らないことがあればすぐに怒り、突拍子もない行動をとる。そんなわがままな性格に、手を焼いた大人は一人や二人ではなかった。
「母親が他のお母さんに『尚樹が自分の子どもだったら育てられない』って言われたこともあったぐらい(笑)家の玄関の靴を道路に全部出したり、嫌なことがあったら壁に穴を開けたりとか。歯医者に行ったときには、親とアイスの話をしていて、食べに行こうって言われたけど結局行けなくて。今日行けるもんだと思っていたからそれで泣きまくって、家まで距離あるのに一人で帰っちゃうこともあった。もう手に負えない子どもだったね」
そんな奔放で感情豊かだった渡邉少年の心を掴んで離さなかったのがーー大宮アルディージャ(現・RB大宮アルディージャ)だった。小学生の頃は大宮のスクールに通い、試合や練習を観に行っては、憧れの選手たちにサインをもらいに行く。「ガチファン」といった言葉が似合うほど、筋金入りのサポーターだったという。そんな日々のなかで、自分もあのピッチに立ちたいという夢が芽生えていった。
高校は親元を離れ、ヴァンフォーレ甲府の下部組織に。当初は周りのレベルの高さについていくのに必死だったが、高校3年時には2種登録指定選手に選ばれ、ルヴァンカップのメンバーにも名を連ねた。だがプロの世界は甘くなかった。夢に向かって一歩ずつ進んだものの、トップチーム昇格の話は最後の最後で消えた。
「2種登録された時はめっちゃハッピーですごくうまくいってた。最初は一回保留みたいな感じだったんだけど、最終的にトップチームに昇格ができないって言われたんだよね。その時に心が一気にバーンって折れちゃって。プロになるために甲府を選んだから、それでいけなかったのはめっちゃキツかった。関東1部の大学の話もあったんだけど、『もうサッカーいいかな』っていう気持ちになっちゃった」
心の中にぽっかり空いた穴。進路を決める時期となり彼はサッカーではなく、もうひとつの夢に目を向けた。
「英語がめっちゃ好きだったから、亜細亜大学の国際関係学部に行った。その学部は、学部生の8割ぐらいが留学に行くくらい外国が大好きで、英語を学びたい多文化な人たちが多くて。だから自分も留学に行きたいと思ってたし、大学選択したタイミングではプロになりたい気持ちは全くなかったね。将来はホテルマンとかグランドスタッフとか、英語を使って働けたらなって」
英語との出会いには家庭の影響も大きかった。親や姉が海外志向で、小さい頃からオーストラリアなどに旅行にも行ったことがあった。外国の空気はどこか懐かしくて、自然と自分の中にあったのだ。

そうして彼は、サッカーを本気でやるつもりではなかった亜細亜大学に進学する。だがそこでは、もう一度火が灯るような出会いが待っていた。
「一個上の先輩で富山第一出身の人がいたんだけど、ゲキサカが選ぶ注目選手にも選ばれていたくらいめっちゃ活躍していた人で。練習に参加したときに話したら、めっちゃ仲良くなって『一緒に上を目指そうよ、亜細亜大学を上げていこうよ』って言ってくれたんだよね。そこから『やっぱりサッカー楽しいかも』って思うようになれたし、大学のレベル感的にも自分が中心でやれるかもしれなかった」
そんな先輩との出会いからサッカー部への入部を決めた。もう一度本気で上を目指してみようーー気づけばそんな気持ちが芽生えていた。
だが、当時の亜細亜大学は東京都2部リーグ所属。関東リーグ所属の強豪大学とは違い、部の空気は想像以上に緩やかだった。
「超ギャップがありすぎてやばかった。上を目指してる人なんてそもそもいないし、みんな練習の時間が終わればすぐ帰るし。もちろん『本気でこのチームでやりたい』っていう選手もいるんだけど、多くの人は将来普通に就職するから、熱量は全然違ったんだよね。だから何度もサッカーをやめたいって思った。でも”サッカーをやめたい”っていうより、”この部活をやめたい”っていう気持ちだったんだよね。サッカーのことは嫌いにはならなかったけど、この環境でサッカーをするのが好きじゃなかった」
そんな状況の中、彼を支え続けたのはあの先輩だった。
「でもあの先輩はずっと変わらずちゃんとやってた。練習が終わった後も残って、いつも一緒にいて面倒を見てくれて。大学も寮だったから生活も一緒で、本当に友達みたいな感じ。3年後、4年後にプロになるために今何ができるかって、そういう話ばかりしてた。大学に入った時は英語を学びたいって思ってたのに、その人と出会って、もう1度、上を目指したいって思えた。そのくらい自分を変えてくれた先輩だね。あの人めっちゃすごいよ」
その先輩に刺激を受けながら、誰よりも勝ちたくて、誰よりもまっすぐだった渡邉。しかしその熱量を共有できる相手がほとんどおらず、その矛先はしばしば周囲との摩擦になって表れた。
「周りからしたら珍しかったと思うし、めっちゃ浮いてたね。1年生のときは4年生にめちゃくちゃ文句言ってた。『もっとちゃんとやれよ』って。監督にも『このサッカーじゃ勝てないでしょ』って試合が終わった後に普通に言うくらい。走るときも、『こんな走りをするくらいなら、ちゃんと練習した方がいいでしょ』ってそんなことばかり言ってた。超ひねくれてたね」
そんな荒れた1年目のリーグ戦では、朝鮮大学校と成蹊大学が1位・2位を占め、亜細亜大学は3位。惜しくも自動昇格には届かなかった。悔しさを胸に迎えた2年目だが、まさかの2部リーグ全勝。わずか5失点という堅守を誇り、堂々と1部への昇格を果たした。
「その時の4年生は本当に強かった。2年生の頃からずっと中心で出ていた選手たちが、最終学年になって一気にまとまって。みんながサッカーに対して真剣に向き合ってたし、チームとして超強かったね」
人生最高の90分
そんな追い風を受けて、彼らは東京都1部リーグへと駆けあがった。だがそこで待っていたのは、まるで別のステージだった。
3年目のシーズン、初めて挑んだ東京都1部での戦いでは10位という厳しい結果を突きつけられる。同じリーグには、青山学院、明治学院、山梨学院、國學院、東京農業など、現在では関東リーグに所属する強豪ばかり。その中でも、今のチームメイトとなった植松亮(青山学院大学出身)の存在は、当時から印象に残っていたという。
「俺が3年生のとき、りょう君が4年生でキャプテンをやっていて。その年に青学が優勝したんだよね。対戦した時には全然雰囲気が違うなって思った。めっちゃ上手いし、なんかゴージャスだった(笑)あとは山学も強くて、もうボコボコにされて。だから自分が最終学年になったらめっちゃ心配になったよ。全然勝てる気しなかったし」
そんな不安を抱えながら、迎えた4年目はキャプテンを任されることになった渡邉。
「もともとキャプテンをやろうとしている人が他にいたんだけど、他の選手が俺のことを推薦してくれて。やっぱり上で目指したいっていうのがあったし、キャプテンをやったら目立つし。これでチームを勝たせられたら絶対評価につながると思ったから」
背負うものは大きかったが、それ以上に得られるものがある。関東昇格という実績を手にできれば、自分自身のサッカー人生もさらに切り開けるかもしれない。そんな期待を胸に新たなシーズンを迎えたが、現実は甘くなかった。
「もうね、すごかったよ。俺らの代はサッカーに対してめっちゃ向き合ってくれてたんだけど、下の代がひどくて。バイトをしても大丈夫な部活だったから、バイトして、学校も楽しくて、お酒とかにも走り出した人もいたし、めっちゃ大変だった」
キャプテンとして理想を掲げる自分と、現実にあるチームの温度差。その狭間で苦しんだ。だが覚悟を決めた渡邉は、キャプテンとしてまず環境づくりに乗り出す。形だけで終わらない、実行力を伴ったチーム改革だった。
「その一年間は本当にサッカーに集中しようってなって、部則をめっちゃ作った。寮の門限を11時にして、オフ前でもその時間に帰ってくるようにした。バイトも試合の前日に入れたらダメとか、めっちゃ細かくやってた」
それは単なる締め付けじゃない。サッカーに、チームに、誠実であるための方法だった。
「ちゃんとサッカーと向き合ってくれって伝えたかっただけ。だからミーティングも何度も開いて口酸っぱくして言っていたのはーー
『俺はサッカー選手を目指している。でもみんなは他の仕事に就きたい。夢はそれぞれ全く違う。でもこのサッカー部に所属している以上は、チームとしての目的を果たすためにやってほしい。だから2時間の練習はちゃんとやってほしいし、遊びに行くのは全然いい。でもその2時間の練習のために、日々の生活を意識してほしい』って。
そしたらちゃんと素直に聞いてくれた。だから俺もキャプテンとして徹底的に行動した。遊びには全然行かなかったし、そういう姿をちゃんと見せれたからみんなもついてきてくれたかな」
目立ちたがりでは決してなく、ただやるからには勝ちたかった。口先だけじゃない、「本気」を伝えるためには行動で示すしかなかった。
「自分たちはチャレンジャーだった。相手からしたら、亜細亜なんてめっちゃ弱いから。でも逆に失うものは何もない。だからそういうポジティブなマインドを、常にチームに訴えかけてたと思う」

そして迎えたリーグ戦。初戦は山梨学院を相手に早々に敗戦。また今年も苦しいシーズンになるかもしれないーーそんな不安がよぎった。
「でも2節目は関東から降格してきた立教だったんだけど、勝ったんだよね。それで一気に自信がついた」
そこから一気に加速した。勝利を重ね、勢いがチーム全体を包んでいく。
「途中で一回負けたんだけど、夏休みが終わった後の、後期リーグで立教に勝ったんだよ。もうチームの雰囲気がめっちゃ乗り始めた」
亜細亜大学、つい最近まで東京都2部にいたチームが関東昇格なんてーー他の大学からすれば、まさに「何言ってるの?」という話だった。
「他の大学からしたら無理だと思われてたんだけど、俺らの代は本気で目指してた。常に自分たちでも『マジで目指そう、歴史変えようよ』って言いかけてた」
仲間たちで鼓舞し合いながら、ついにその時が訪れる。リーグ戦を勝ち抜いた亜細亜大学は、関東昇格を懸けたプレーオフへと駒を進めた。「ワンチャンいけるかもしれない」ーーそんな手ごたえがチームに広がり始めた。勝って、また勝って、勢いは止まらなかった。
そして迎えた最終節。相手は慶応義塾大学。条件は明確だった。慶應は引き分け以上で関東残留、亜細亜は勝利だけが昇格への道。
「でも向こうからしたら『亜細亜なんてどこだよ』って感じだったと思う。小耳に挟んだんだけど、プレーオフ進出が決まったとき、慶応が相手を選べる立場だったらしくて。亜細亜と作新学院のどっちかを選ぶ状況で、亜細亜を選んだらしい。だから要は舐められてんなと思った」
格上の存在であった慶應。対戦経験すらなかった相手に、正直気圧される気持ちがなかったといえば嘘になる。
「慶応なんて、俺らからしたら雲の上の存在だったからどうしようって思ったけど、何も失うものはなかった。これが最後の試合だったからね」
そして運命の一戦は開始から慶應ペースで進んだ。前半で先制を許し、空気はどんよりと沈む。
「前半に取られて、もうダメだなっていう空気になったけど、不思議とチームの雰囲気はすごく乗ってた」
そして迎えた後半37分、ついに同点に追いつく。だが、慶應は引き分けでもOKな状況。残り時間はひたすら守ってくる。刻々と迫るタイムアップ。焦る仲間、詰まる息。
「そしたら最後のアディショナルでまた決めて、逆転。もう全身が震えた。本当にあれ以上の試合はないって思う。その一試合でマジで変わった。圧倒的すぎた」
逆転劇、勝利、歓喜、涙。すべてを懸けて戦った90分が、すべてを変えた。
「この年がめっちゃしんどかったから、大学4年間が超報われたなって思えた。勝ったときもみんなから『お前がキャプテンでよかったよ』って言ってもらえて。そこで初めて嬉し泣きした(笑)そのぐらい嬉しかったね。あれが今までの人生の中でベストゲームかな」
努力をして結果が返ってくる保証なんてどこにもない。それでも信じ続けて、歯を食いしばって戦い抜いた先にあった光景は、何物にも代えがたいものだった。そしてキャプテンとして得た経験は、今の渋谷で確かに活きている。
自分をつくったサッカー
今シーズンは渋谷で副キャプテンを務める渡邉。ピッチ内外での役割を背負いながら、彼の視線は常に個ではなく、”全体”に向けられている。
「もちろんサッカー選手として試合に出られないのは悔しいこと。でも毎回一喜一憂してたら絶対にチームとしてはいい方向に行かない。自分たちが目指している関東1部に対して向き合わないといけないから、そのために全員がピッチ内外でどう振る舞うか、考えてやっていくべきだと思う」
そんな彼が今、ひしひしと感じているのが"チーム力"の重要性だ。
「もっと底上げが必要。メンバーに入れなかった選手、ベンチで出場を待つ選手たちから、もっと突き上げていかないと強くならない」
そして今のチームにはまだまだ伸びしろがあると確信している。
「もっと、もっとできるなっていう感じはある。試合に出る、出られないっていうのは絶対つきものだから、その中で関東1部に昇格するために何をしなきゃいけないのか。練習からそういう姿をしっかり見せないといけない」
試合に出る者も、出られない者も、志はひとつ。
この渋谷をもっと強く、もっと上に。その先頭に渡邉はいる。

そんな彼がふとこぼした言葉があった。
「最近、"自分ってなんのためにサッカーをやっているのか"って、改めて考えることがあって。でも結局、自分という人間をつくってくれたのはサッカーだなって思うし、人間性を育んでくれているものだっていう感覚はめっちゃ大事だなと思っている。こんなにも夢中になれて、悔しかったら泣いて、嬉しかったらみんなで喜びあえるものってそうそうない。だからサッカーに出会えてる時点でめっちゃ幸せなことだなって思う」
その言葉には競技としてのサッカーを超えた、人生の軸のようなものが滲んでいた。勝ち負けの先にある感情、その積み重ねが今の彼をつくっている。
「だからサッカーに出会えてよかった。この感覚はこれからもずっと大事にしていきたい」
だからこそ、たとえ試合に出られずに悩む日があっても、渡邉はそれすらも幸せなこととして受けとめる。
「試合に出られないことはもちろん悔しい。でもそうやって、いろんな感情が生まれるっていうこと自体が、すごく幸せなことだなって思う。その感情が動くものに出会えたことが幸運なんだなって。……もうすごいよね、サッカーの力」
悔しくて涙が出る。勝って自然と声があふれる。誰かのために走って、自分の限界に挑みたくなる。そんな"感情の濃度"をくれるものに、人生の中で何度出会えるだろうか。渡邉にとってそれがサッカーだった。
「今こうやってサッカーができていることは、誰にでも経験できることじゃない。だからこそできる限りやりきって、出し切って終わりたい。それが自分にとって一番いい終わり方かな」
この競技に人生をもらった。だからこそ、最後まで全力で返したい。それが今の渡邉がピッチに立つ理由だ。
すべての原動力になる感情
そんな渡邉には密かな夢がある。
「昔から思ってたんだけど、カフェやってみたいなって。大学生の時にスタバでバイトしてて、その頃からコーヒーも好きだったし。自分でカフェとかできたら楽しいなって。やるならやっぱり自分でお店を開きたいかも」
スタバのエプロンを着て接客していたあの頃も、今のSHIBUYA CITY FCのエンブレムを背負うこの瞬間もーーその選択の背景には、共通する"感覚"がある。
「どれも今振り返ってみると、何かをやりたいと思う動機は、いつも"かっこいい"からだったと思う。このチームをかっこいいって思って選んだし、スタバでバイトをしていたのも、お客さんとして通っていたときに、店員さんがかっこいいなって思ったから。大学に入る前に、空港で働くグランドスタッフとか、ホテルマンになりたいって思ったのも、全部"かっこいい"から」
彼が選んできた道や、なりたかったものは外からの期待ではなく、自分の心から湧き上がる"かっこいい"という感情。外見や評価だけではなく、自分自身が本当に誇れる何かであり、人生を通して常に大切にしているものだ。

「"かっこいい"って、自分が思えることをしたい。それが自分を動かしている原動力みたいなものかな。だから自分が満足すれば全然オッケー。渋谷でサッカーをできているのも、めっちゃ嬉しいしすごく誇りに思う。ここでプレーできてかっこいいなって思うから。人生充実してます」
自分の感情を信じ、どんな瞬間も他人と比較することはない。心から誇りを持って生きることができているからこそ、渡邉の人生は輝いているのだろう。
誰かを幸せにするために
これだけでも渡邉尚樹という人間は、十分すぎるほどの人格者に思えた。だが、そんな渡邉に「自分にとっての頂点は?」と問いかけると、返ってきた言葉は想像を遥かに超えるものだった。
「自分の周りにいる人たちが幸せになること。貢いでいるとかそういう変な話じゃなくて、人にお金を使うのがめっちゃ好きで。誰かにご飯をご馳走するとか、何かを買ってあげるとか」
それは彼の生まれ育った環境にも根ざしていた。
「父親の家系も、誰かのために何かをするっていう人たちで。それがきっと自分の中での原動力になってる。突き詰められるものじゃないけど、常に心の中にずっとあることかな」
ここで思い出されたのが、チーム内での"お誕生日お祝い担当"という渡邉のもう一つの顔だ。誰かの誕生日の日になると、真っ先に動くのはいつも彼だった。

「まさにそれも同じ。誰かの誕生日を祝って、みんながハッピーになってくれればいいなって思ってる」
自分自身の頂点を問われているはずなのに、その答えの全てが他者の幸せに向いている。自分が一番かわいいーー人間誰しも、少なからずそんな感情を抱えて生きている。だが良い意味で、それを軽やかに裏切る彼のスタンスに、ただただ驚かされる。
「極端に言えば、僕と話した時にハッピーに感じてくれたらいい。僕ね、人を笑顔にするのが得意なんですよ。よく"笑い顔"って言われるし、ずっとニコニコしてるよねって。だからそういうので僕と話してる時間が少しでも楽しいって感じてもらえたらいいなって思う」
そんな笑い顔は彼曰く無意識だという。でもその裏にある「誰かを幸せにしたい」という想いが彼を突き動かしている。取材中もやっぱり彼はずっと口角が上がっていた。
「僕ずっとニコニコしてるでしょ。家でもそう。逆にそうじゃない時が少ないね。だからハッピー男だね。ずっとハッピーだよ」

そう言って、またニコッと笑う。
「嫌なこととかほとんどないもん。もちろん悩むこともあるけど『ちっぽけだな』って思えるから全然大したことない」
ポジティブという言葉ではもう足りない。それは意識して身につけたスキルのようでもあるし、長年かけて形作られた哲学でもある。
「割とサッカーはサッカー、プライベートはプライベートって結構割り切ってる。家には絶対サッカーの感情を持ち込みたくないし、仕事の愚痴も誰にも言わない。そもそもそういう感情になることがあんまりないけど、もしあったとしても誰かに言おうとか思わない」
生まれてしまうネガティブな感情も、誰かにぶつけるのではなく、自分の中でそっと引き受ける。そしてその手で静かに、明るい色へ塗り替えていく。
「意識的にポジティブマインドに変えようとしてる。俺心配性だから、考えたら考えた分だけ落ち込んじゃうのも分かってて。だからそうならないようにしてる。気持ちが落ちないように、自分でポジティブに変換していく。もう常にポジティブでいるようにしてるんだよね」
何も考えていないわけではない。むしろその逆だ。心配性な自分をよく知っているからこそ、慎重に、そして丁寧に自分を整えている。そしてその源泉は何かと聞けば、彼は「愛情」と答えた。
「すごくたくさん愛情をかけて育ててもらったんだなって思う。だからこそ、その分をちゃんと返したい。自分がもらったように、誰かに対して優しくしたい」
どんな感情も誰かに押し付けることなく、静かに受け止めて自分の中で昇華する。その穏やかさと芯の強さが渡邉の魅力であり、人を惹きつける理由なのかもしれない。

そして最後にこう付け加えた。
「だから少なくとも、自分の周りにいる人たちだけは幸せになってほしい」
誰かの笑顔のために生きる。大それたことはしない。目の前の一人ひとりに、心からの優しさを手渡す。それがこの世界を、ほんの少しでもあたたかくする力になると信じているからだ。
取材・文 :西元 舞
写真 :福冨 倖希
企画・構成:斎藤 兼、畑間 直英
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SHIBUYA CITY FC
渋谷からJリーグを目指すサッカークラブ。「PLAYNEW & SCRAMBLE」を理念に掲げ、渋谷の多様性を活かした新しく遊び心のあるピッチ内外の活動で、これまでにないクリエイティブなサッカークラブ創りを標榜している。
渋谷駅周辺6会場をジャックした都市型サッカーフェス「FOOTBALL JAM」や官民共同の地域貢献オープンイノベーションプロジェクト「渋谷をつなげる30人」の主宰、千駄ヶ谷コミュニティセンターの指定管理事業など、渋谷区での地域事業活動も多く実施している。
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