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九州で生まれた男の背骨。「やっぱり男は背中で語る」ーー本田憲弥 【UNSTOPPABLES】 #9

2025年5月4日

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「やっぱり男は背中で語るっすよね。自分はごちゃごちゃ言うタイプじゃないので」


"九州男児"という言葉がある。それが、単なる地域的なレッテルではなく、ひとつの生き様を指すのだとすればーー本田はまさにその体現者だ。彼のことをよく知る者からすれば、意外性がないと思われるかもしれない。だが、何も足さず、何も引かずに立つ、その潔さが強く印象に残った。


【UNSTOPPABLES~止められない奴ら~】

昨シーズン、関東2部への昇格を決めたSHIBUYA CITY FC。その栄光の背後には、勝利以上のものが隠されていた。選手たちの揺るぎない自信と勢いは、彼らの人生に深く刻まれた歩みから来ている。勝利への執念、それを支える信条。止まることを知らない、彼らの真の姿が、今明らかになる。


第9回は、在籍4年目を迎えた本田憲弥。一切の言い訳も余白もない言葉と、黙して語るその背中。そこに宿る生き様と覚悟に迫る。


本田 憲弥(ほんだ けんや)/ MF

福岡県北九州市出身。1998年12月14日生まれ。170cm、70kg。小中時代を地元のクラブである小倉南FCで過ごし、高校は流通経済大柏に進学。名門の10番を背負い、全国高校総体では準優勝を経験した。その後も流通経済大学に進み、卒業後は一度地元に戻るも、2022シーズンからSHIBUYA CITY FCに加入。今年でチーム在籍4年目を誇り、そのハードワークと走力を活かしたゲームメイクでチームを支える。


燃え尽きと、流れるままの道


サッカーを始めたのは、小学1年生のときだった。2つ上の兄の背中を追いかけるようにして、地元・九州では知られた存在である小倉南FCに入った。振り返れば、当時のチームは少しどころか、かなりやんちゃな集団だったという。


「本当にやんちゃなチームでした。チャラチャラしてるというか、生意気なやつらばかりで。自分もすぐイラついてたんですよ。試合でボールを取られただけでムカついたりして。でもああいう環境で生き残っていくには、やっぱり負けん気が必要だと思います」


荒れた空気のなかでひたすらボールを追いかけた毎日。そんな環境で、今でも続くもうひとつの”好き”が育った。それが格闘技だ。


「親が見ていた影響もあって、小さい頃から好きですね。キックボクシングもMMAも全部見ます。サッカーより見るっすもん」


楽しそうなその表情から、その熱が本物であることはすぐに伝わってくる。ちなみに好きな格闘家は伝説のファイター・KID(山本徳郁)であるという。そして昨年の12月には、念願だったK-1を生観戦。


「やっぱり生は音がすごいっすね。見やすさはテレビとか携帯の方がいいですけど、音とか血の感じはリアルで見ると迫力が違いました」


ボールを追うときとはまた違う、一段とワクワクした空気を纏ながら話す本田。


「俺、よくジムに行くと軽くシャドーとかするんですよ。そしたら、こいつらとかがめっちゃバカにしてくるんです。『またやってるよ』って(笑)」


そう言って、横のテーブルにいたチームメイトを指さす。軽口を叩きながらも、どこか楽しげな光景だ。



そんな格闘技という、もうひとつの闘いを愛してきた本田だが、もちろんサッカーも彼にとって欠かせないもの。中学では同じチームでプレーを続け、だんだんとプロサッカー選手になりたいという夢が輪郭を持ちはじめた。高校進学を考える時期になると、青森山田、東福岡など全国屈指の名門が進路の選択肢に並んだが、道標となったのはチームの先輩たちだった。数人の先輩が進学していた、流通経済大柏高校に目を向ける。


「ちょうど自分の先輩たちの代がインターハイで全国2位になって、プレミアリーグでも優勝していて、めっちゃ強かったんですよ。それを見て自分も流経に行きたいなと思いました」


練習参加の時点で、手ごたえは感じていた。ここでなら自分はやれるーーそんな確信を胸に県外の地へと飛び込んだ。


1年時からトップチームに少しずつ絡み始め、2年に上がるとプレミアリーグにも出場できるまでに成長。気づけば名門の10番を託され、チームの中心に立っていた。だが、その舞台に立つことに特別な感情はなかったという。


「どの試合もあんまり変わんないっすね。ただやるだけ、みたいな。気合でどうにかなると思って、とりあえずやってたって感じです」


淡々と、あっさりと口にする。プレッシャーについて尋ねても答えは同じだった。


「プレッシャーとかもあんまり感じなかった。でもなさすぎるのもよくないっていうじゃないですか。本当はいい緊張感のなかでやれたら一番だとは思うんですけど、それがあんまりなかったので……」と最後は言葉を濁した。


その後はエスカレーター式で流通経済大学に進学。


「別に行きたい大学もなかったし、どこの大学がいいとかよく分からなかったです。このまま上がれるならいっか、みたいに流れるままに行きましたね」


当時を振り返る本田の声には、特別な感情も強い意志もなかった。流れに身を任せ、自然と次のステージへと進んでいったが、そこにある気持ちは高校時代の頃とは違っていた。


「高校でマジでやりきろうと思っていたので、燃え切ってしまったのかもしれないです。(大学に入ってからの熱量は)なくはないですけど、それほど高くはなかったです」と語るが、その表情に後悔の色はない。むしろ、どこか吹っ切れたような潔さすら感じられた。


大学に入ってからは、トップチームや社会人チームなど、さまざまなカテゴリーを行き来しながらプレーをしていた。かつてのような輝きや、胸を焦がすような熱量は次第に薄れていったものの、やはりプロへの思いは消えることはなかった。



そして大学卒業後もサッカーを続ける道を選んだ。


「自分のスイッチが入る瞬間が、サッカーをやっているとき以外にないから」


何かに突き動かされているように夢中になれる時間。それは続けようと考えるより、自然とそこに戻ってくる場所だった。


だが、自分が理想とするチームにはなかなか出会えなかった。悩んだ末に地元・福岡へ戻ることを決意する。


「自分でいろいろチームを探しながら、体を動かしていました。小倉南FCにコーチとして入らしてもらって、監督とかにも『いいチームありますか?』って相談したり。あとは知り合いの大分県1部リーグに所属する社会人チームの試合に出させてもらったりして、1年間過ごしていました」


チームが決まらない焦りはなかったのか、そう尋ねると、少し考えて静かに答えた。


「あるんですけど……なんですかね。地元に帰れた安心感の方が大きかった。やっぱり地元が好きなので。自分のことを追い込んではいたし、絶対どこかのチームに行けるなと思っていました。その準備期間じゃないですけど、そんな楽しい一年でした。」


都会すぎず、田舎すぎないちょうどいい街並み。そして、安くて美味しいご飯。福岡の"ちょうどよさ"は、本田にとって帰る理由には十分だった。


あの頃の渋谷と、託された背番号


時が経ち、2年後ーー本田は渋谷の地に降り立った。


福岡で1年を過ごした後、高校・大学時代の同期だった河西守生(2024シーズンまでプレー)に渋谷を紹介してもらった。「今年は無理だ」と一時は断られたものの、それでも練習参加を経て、加入を掴んだ。


都会を拠点にする社会人チームでプレーするのは初の試みだった。だが、その印象は良い意味で裏切られたという。


「みんなめっちゃ良い人たちばかりです。元々自分が持っていた社会人のイメージがあったので、もっと嫌な奴とかいて、年上の人たちとかもガヤガヤ言ってくるのかなと思っていました(笑)。でもみんなめっちゃ優しくて助かりました。すごくやりやすかったです」


思い描いていた社会人サッカーは、厳しさや堅苦しさよりも、もっと温かく、もっと人間味のあるものだった。


そして渋谷に加入してからの1年目はフォワードとしてプレーした。


「もともとボランチだったので、本当に向いてなかったです。あの時はもう、ただポストプレーして、『はい、泰右さんお願い!』ってパスするだけ(笑)俺と守生とトドが前でガチャガチャ動き回って、泰右さんが頑張ってくれるから『あとはよろしく!』って感じでした。それも面白かったですね」


河西と同じく、昨シーズン(2024年)までプレーしていた轟木雄基、そしてエースだった宮崎泰右。あの頃のエピソードを語る本田は楽しげで、当時の空気がそのまま蘇ってくるようだった。


「マスさん(増嶋監督)が来てからはボランチに戻してもらいました。やっぱりずっとボランチでプレーしていたので、すごくやりやすいです。俺はちゃんとしたフォワードじゃなかったので。でもあの時は人がいなさすぎたので、やるしかなかったですよ」


多少の無理をしてでもチームのために動いた時間。それはきっと本田にとって良い財産になったに違いない。



そして先述にもあるように、学生時代からともに戦ってきた同期・河西守生との縁が、また新たなかたちで本田の背中を押していた。昨シーズン限りで現役を引退した河西は、自身が背負っていた”11番”を本田に託していった。


今でも連絡を取り合うという仲がいいふたり。その番号に思い入れはあるのか、そう尋ねると本田の答えは思いのほかあっさりしたものだった。


「『お前、俺の番号つけろよ』みたいな感じで言ってきたんですけど、それ以外は特に何も言われていないです(笑)そのときも『気が向いたらつけるわ』ぐらいに返していたんですよ。今年、背番号を決めるとき、たしか第2希望に11番って書いたかな?俺は14番が好きだったので、このままでいいやと思ってたんですけど、11番がいないからって言われたので、まあいっかって決めました。別にそんなにこだわりはないです」


大々的にクラブが発表し、注目を集めた”11番”継承。しかし、当の本人はどこ吹く風といった様子だ。それでも表情や口ぶりからは、やはり河西への特別な思いが隠れている。



「本当にずっと一緒にいましたよ。もう、常に」


学生時代、同じ寮で寝食を共にし、数えきれない時間を共有した仲間。その11番を、いまは本田が背負っている。今年新たな番号とともに、本田はどんなプレーを魅せてくれるのか。その姿が楽しみで仕方ない。



恩師からの二つの言葉


話は9年前に遡る。本田が高校生だった頃、毎晩のように繰り広げられていた光景がある。当時、寮の点呼が終わると、寮長が同じ建物に暮らしている監督を呼びに行く。そして監督が現れると、ホワイトボードを前に夜な夜な話を始めるのだった。


「ミーティングでも点呼でも、ずっと話していたんですよ。しかもそれが超長くて……。夜の9時半とかに始まって、気づいたら11時とか。次の日に朝練があっても関係なし。『早く終わってくれよ』ってずっと思っていました(笑)でもめっちゃいい話で、結構好きでしたね」


苦笑しながら振り返るが、そんな厳しい環境の中でも、心に刻まれた言葉がある。それは、今でも本田のスマートフォンのメモ帳に残されている。


それが「守破離」と「木鶏」。


守破離(しゅはり)ーー師の型を守り、そこから自分なりに工夫し、最後は型から離れ、己の道を歩む。武道や芸道に伝わる修行の道であり、ビジネスや教育の世界でも語られる、成長の本質を突く教えのこと。


木鶏(もっけい)ーー敵を前にしても一切動じない、最強の闘鶏のこと。内に秘めたる強さを持ち、静かに揺るがず、すべてを制する存在のたとえ。


この二つの言葉は、本田が高校3年間、ことあるごとに監督から語られ、繰り返し教えられてきたものだった。そして監督は言葉だけではなく、社会に存在するあらゆる事象についても語りかけ、選手たちの心に深く根を下ろさせた。



そして、その監督もまた、本田と同じ「本田」の姓を持つ男だった。流通大柏を率い、指導歴約40年の名将、本田裕一郎。敬意を込め、本田はそんな恩師を迷わず「ボス」と表す。


「この人、なんでも自分でするんですよ。家を建てたり、誰かが肩を脱臼したら『お前ちょっと来い』って言って、自分で治したり。あとは変な練習法も取り入れてきました。ロングスローをみんな投げる時期があったときに、どこかから自転車のチューブのようなものを持って来て、鉄棒につけて、膝をついて練習するんです。ちょっと考えは古いですけど、飛距離を伸ばすためにそういうのを取り入れていたので、すごい面白かったです」


型破りで、どこか昭和の香りを残すような練習法と、夜が更ける長い話。古くさく、泥臭い教えのように思えるが、今の本田が魅せる力強さは、まさにその延長線上にあるのだ。


言葉ではなく、背中で語る


そんな”ボス”から受け継いだ教えは、今でも本田の心の内に息づいている。そして気づけば、渋谷に加入してから今年で4年目。岩沼俊介、植松亮と並び、チーム最長の在籍年数となった本田に、自身の役割について尋ねると、答えはいたってシンプルだった。


「やっぱり男は、背中で語るっすよね。自分はごちゃごちゃ言うタイプじゃないので」


それは役割というよりも、自らの在り方ーーそう言ったほうがしっくりくる答えだった。そしてそのスタイルは、小さい頃から一貫している。


「もうずっと常にそう。もともとそういう性格だし。あんまり人に興味がないんですよ。だから別にそこまで感情を表に出すことはないです」


そう淡々と語ったあと、本田は少し笑いながら付け加えた。


「自分を持ってるっすね。一応(笑)」


最後はどこかあやふやに、照れ隠しのように締めた。言葉より、背中で語る。九州男児らしい、まっすぐな本田のスタイルは昔も今も変わらない。


そんな本田の自分にとっての頂点とはーー。


「死ぬ時じゃないですか。基本、いつ死んでもいいと思っているので」


あまりにも突き抜けた言葉に、筆者もただただ驚かされる。


「だから『なんとかなるっしょ』ぐらいな感じで生きています。なにかあったらその時にまた考える。だから普段はあんまり考えてないです。人生なんとかなると思ってるので、今がよければいい。先のことなんてわかりません」


肩肘張らずそう語る姿からは、成り行き任せのような軽さも感じられる。だが、話はそこで終わらない。


「あとは気合でなんとかなります。やっぱり自分は内に秘めてるものがあるので」


無鉄砲でも無計画なわけでもない。ただ、言葉にせずとも静かに燃やし続けるものが、心の奥底にあるだけだ。常に前だけ見て、感情の波に飲まれることなく、自分の足で地面を踏みしめてきた男。そして最後には、こんな言葉を付け加えた。



「背中で語るので、ついてこいって感じです」


九州の地で育まれた気質と、恩師から叩きこまれた教え。それを胸に、言葉ではなく、生き様で魅せる。それが本田憲弥の、生涯変わらぬ流儀だ。


取材・文 :西元 舞 

写真   :福冨 倖希

企画・構成:斎藤 兼、畑間 直英


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SHIBUYA CITY FC

渋谷からJリーグを目指すサッカークラブ。「PLAYNEW & SCRAMBLE」を理念に掲げ、渋谷の多様性を活かした新しく遊び心のあるピッチ内外の活動で、これまでにないクリエイティブなサッカークラブ創りを標榜している。

渋谷駅周辺6会場をジャックした都市型サッカーフェス「FOOTBALL JAM」や官民共同の地域貢献オープンイノベーションプロジェクト「渋谷をつなげる30人」の主宰、千駄ヶ谷コミュニティセンターの指定管理事業など、渋谷区での地域事業活動も多く実施している。


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