
かつて自分も”そっち側”だったからこそ、わかる。「もう誰のことも置いていきたくない」ーー志村滉【UNSTOPPABLES】 #15
2025年6月18日
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「俺はこのチームで、もう誰も置いていきたくないんです。誰もひとりにしたくないし、あの経験があったからこそ成長できたって、簡単に思わせたくない。俺は人の痛みが分かるからこそ、いらない苦しみは絶対に排除したいんです」
志村滉は自分のことを、”魂プレイヤー”と表現する。それは彼のnote(ブログアプリ)に綴られており、どの言葉も覚悟と体温が乗っている。毎回、投稿するたびに100を超えるいいねがつくのも頷ける。言葉選びのセンスと年相応のリアル。飾らず、芯があるのが魅力だ。そんな彼だからこそ、情報はすでに出揃っていた。これまでのキャリアも、胸に抱える想いも、すべて彼自身の言葉で語られている。むしろ、わかりすぎたくらいだ。でもそれだけでは、何か足りない気がした。プレーや文章の向こうにまだ見えていない、にじむ熱があるのではないか、そう感じた。
【UNSTOPPABLES~止められない奴ら~】
昨シーズン、関東2部への昇格を決めたSHIBUYA CITY FC。その栄光の背後には、ただの勝利以上のものが隠されていた。選手たちの揺るぎない自信と勢いは、彼らの人生に深く刻まれた歩みから来ている。勝利への執念、それを支える信条。止まることを知らない、彼らの真の姿が、今明らかになる。
第15回目は、見る人の心を動かす、ガッツを持つ志村滉。彼の言う”魂”とは、一体何なのか。ただ熱いだけの姿勢なのか、それとももっと深い何かがあるのか。その奥に潜む火種を確かめに行った。
志村 滉(しむら こう)/ DF
宮城県仙台市出身。2000年5月13日生まれ。180cm、76kg。地元の福室SSSでサッカーを始め、小学2年時から中学卒業までベガルタ仙台の下部組織でプレー。高校は仙台育英学園へ進学し、2年時から2年連続で県内三冠を達成。大学は岩手県の富士大学へ進み、4年時にはキャプテンを務めた。大学卒業後は松本山雅FCに加入し、翌年にはブリオベッカ浦安・市川へ期限付き移籍。今シーズンより、SHIBUYA CITY FCに加入。右足のキックの精度と空中戦での強さに加え、豊富なスタミナを活かしたハードワークが持ち味。
あの出来事があったから、今の自分がいる
2011年、3月11日。日常はほんの一瞬で、非日常に変わった。日本を揺るがす大地震ーー東日本大震災のことだ。
当時、小学4年生だった志村は、ちょうど5年生に進級する前だった。前日には余震があったが、「なんか揺れてるな」くらいの感覚で、特に気に留めることもなかった。
そして迎えた次の日。突然、教室全体が大きく揺れ出した。整然と並んでいた机がバウンドするように動いた。マグニチュード9.0、震度7。かつてない規模の地震に、慌てて校庭に避難した。
その日は大雪だった。凍える手をこすりながら待つ生徒たちと、必死に誘導する先生たち。
「うちは、親の職場が比較的近いところだったので、すぐに迎えに来てくれました。でも迎えがなかなか来ない子とかは、相当しんどかったと思います」
そこから、ひとまず自宅へ避難した。もちろん、家の中はぐちゃぐちゃだった。その日の夜は家族みんなで車中泊をした。
翌朝から家の片付けを始めたが、ガスも電気も水道も止まったまま。夜は電気の代わりに、大きなろうそくの灯りを囲み、トランプをして過ごした。足りない物資を求めて、家族で手分けしてスーパーやガソリンスタンドへと向かったこともあった。
「細かいことはあんまり覚えてないんですけど、スーパーって誰も買わないと3日くらいで全部ダメになっちゃうから、無料で配っていたんです。500円で5人分の食事セットみたいなのが売ってて、それを買うために並んだ記憶があります」
生きるためにみんな必死だった毎日。だが、志村はあの津波を直接目にしてはいない。津波は彼の自宅から1キロ先まで押し寄せたのだが、間一髪で難を逃れた。
「津波が来たのは、地震が起きた40分後でした。でもそのときは停電していたので、テレビも見れなくて全然情報が入ってこなかったんです。あの津波が来たことは、次の日の朝に配られた号外で知りました。でっかい津波の写真を見て、『うわー……』って。そこでやっと実感が湧きましたね」
彼は運良く助かったものの、まわりには家族を失った友人もいた。そして、命を落とした者も。

当時通っていたサッカーの練習場は内陸にあり、直接の被害はなかった。それでもチームメイトの中には親を亡くした仲間もいたため、練習再開までは時間を要した。1人で自主練することもできなくはなかったが、とてもサッカーに向き合う心境ではなく、気が乗らなかった。
そしてこの震災をきっかけに、彼はある心の傷を抱えることになる。
「今はもう大丈夫なんですけど、10年間くらい海がトラウマでした。遠くから綺麗だなって見るぶんにはいいんですけど、砂浜に行くと『いつ津波が来るか分からない』って思っちゃって。大学の頃とかみんなは普通に海に遊びに行っていたんですけど、誘われても俺だけ行けないときもありました」
周りの友達が楽しんでいる中、自分だけがそこに入りこめない孤独は、さぞ辛かったことだろう。だが、そんな凄まじく苦い記憶があっても、気づいたことがある。
「『ちゃんとみんな生きてるって幸せなんだな』って思えるようになりました。当時はまだ小さかったのでそこまで深く考えていなかったんですけど、年数が経つごとに、あの出来事がどれだけ自分に影響を与えていたか、少しづつ実感するようになりました」
普段私たちが生活できていること。何気ない日常が、どれほど尊いものかーーすべてを失うような出来事を経験しなければ、その価値にはなかなか気づけないが、彼はそれを痛いほど知っている。
「毎年3月になると、一番大事なことを思い出せるんです。それって自分にとってすごく大きくて。毎日毎日、人に感謝することは忘れちゃいけないなって思います」
そして毎年夏には、地元・仙台に帰省し、欠かさずお墓参りに行くという。
「そういうのも大事なんです。あの震災がなかったらきっと、『お墓参りとかめんどくさいっしょ』って思う人間になってたかもしれないから。あの経験があったからこそ、今の自分の考え方があると思います」

そう話したあと、志村は「でも」と付け加えた。
「やっぱり人間なので感謝を忘れちゃうことはある。だからそこはふとした瞬間に思い出せれば十分だと思います。毎時間、毎秒そう思っても、なんか気持ち悪いので。誰かに何かしてもらったり自分がしたときに、『これは当たり前じゃないな』って思えれば、それでいいんです」
そして、自分のような経験者ではない人たちにも目を向ける。
「やっぱり、どうしてもみんな忘れちゃうんですよ。被災していない人たちは震災のことなんて、3月になっても思い出さないと思います。今はどちらかというと、石川県の能登半島の災害の方にみんな意識が向いていますよね。コンビニの募金だって、もう能登しかないじゃないですか。もちろんそっちの方が緊急度は高いので、それが間違ってるとは思わないですけどね」
たしかに筆者自身も、3月11日には黙祷をしたり、ネットの検索募金に参加したりするくらいで、それ以外の364日はあの出来事をあまり思い出さない。ましてや、生まれも育ちも違えばなおさらで、正直なところ、どこか他人事のように感じている自分がいるのも事実だ。コンビニの募金だって、気づいたとしても毎回しているわけではない。
「けど、たまにちょっと寂しいんですよ。『あの震災がなかったことになっちゃってるな、日本』って思うことがあるんです」
実際に体験したからこそ出る、リアルな気持ち。だからこそ、決して筆者は共感できなかった。できないというより、してはいけないなと感じた。
「全く被害を受けてない人からしたら、あんまりピンとこないのは当たり前だし、『震災あったよね、大変だったよね』で終わりじゃないですか。逆に、『震災、大丈夫だった?』って、みんな俺には聞きづらいと思う。こういうインタビューの場なら全然大丈夫なんですけど、お互い気を遣い合うのも変な感じなので」
あれから10年以上が経ち、震災を知らない世代も増えており、実際に経験した人は日本の中でもほんのひと握り。身近に被災者がいなければ、思い出すことがないのも、ある意味普通のことだ。それを責める気なんて、彼にもまったくない。
「だから、自分がちゃんと覚えてればいいんです。『大変だったね』って言われたいわけじゃない。あれが自分の中で大事な経験で自己形成につながっていったから、自分の中で思い出せれば十分です」
苦く、悲しい記憶であることには変わりはない。だが、良くも悪くもどう捉えるかは自分次第だ。「辛かった」だけで終わらせず、あくまで自分の中で忘れないことで今を生きる力となっているのだ。
個性の中で貫く、調和の凹
志村が渋谷に来て、早くも半年が経った。今ではサッカーに真摯に向き合いながら、チームメイトとは笑顔を交わす姿が当たり前になってきたが、移籍当初はこんな気持ちだった。
「東北で素直にまっすぐ生きていた少年にとっては、刺激がちょっと強すぎました。最初は正直、『このチーム、ガラ悪いな』って思ってました。マジでノリ合わないなって。みんなうるさいし、口も悪いし、『おらあ!』みたいな(笑)知ってる選手は何人かいましたけど、チームの雰囲気的にはちょっとびっくりしたし、練習中も怖かったですね」
たしかに渋谷は個性があふれる選手が多い。その中でも志村はおとなしい部類に入り、年齢もまだ今年25歳と、中堅よりやや下だ。

それでも彼は、自分の立ち位置をこう捉えている。
「ちょっと個性強すぎますけど、そこに入っていかないのも自分の個性かもしれない。流されるっていうとなんか悪い表現になりますけど、流されずに、自分は自分の良さをちゃんと消さないようにしたいです。俺は性格的にみんなのような系統じゃないので」
そう言いながら、「うーん、もう少し良い表現をしたいな……」と考え込む。そして出てきたのはユニークな表現だった。
「みんなが凸で、自分は凹なんですよ。わかります?(笑)チームの2/3は尖ってるので、それを自分がいい感じに吸収して、吸収して、吸収して……。っていうのは、自分にしかできないって言ったら大袈裟だけど、そういうタイプの人間はこのチームに少ないから、チームがうまく進むために、俺がそれをやらないとって思います。調和性はある方なので」
さらに、わかりやすいようにと、こんな一例を出してくれた。
「例えば、(山出)旭くんと一緒に試合に出たとします。旭くんは『こうしたい!』っていうプレーのイメージがあって、もちろん俺にもあるけど、結果的にぶつかってしまったらうまくいかない。だから旭くんがやりやすいように、俺の方から合わせるっていうのはすごく意識しています。
(鈴木)友也くんとも組んだりしますけど、友也くんは基本的にイニシアティブを取って、全体を動かす部分が特徴。そこで俺は他に目を向けて、友也くんがちょっと疲れていたり、ミスで落ち込んでいるときは、自分が代わりにその役割をしようってめちゃめちゃ意識しています。そういう"しっくり感"を生み出すための役割を、陰ながらやっているつもりです」

そんなふうに周りを見れるのは、間違いなく彼の武器だ。だが、本人はそれをあまり良いことだとは思っていない。
「つまり、周りをめちゃめちゃ気にしてるってことなので、結構デメリットなんですよ。『この人、何考えてるんだろう』とか『俺に対して、ちょっとネガティブに思ってそうだな、これ言いたそうだな』って余計に考え込んじゃうんです。
気にしいな性格なので、『滉、お前ちゃんとやれよ~』って軽いノリを言われたとしても、『ちゃんとやってなかったのかな?』って深く捉えちゃう。今のこの取材だって、『時間大丈夫かな?』って顔色を伺っちゃってます」
むしろこちらが、時間は大丈夫なのかと心配しているのだがーー彼は取材者にすら、気を遣っていたようだ。
本人も「直さなきゃ」と思っているが、どうやらなかなか変えられるものでもないようだ。そして思い返せば、昔からその思考のクセは身についていたという。
「ベガルタのときもめっちゃ厳しく言われてきたので。そういう環境でやってきたことが、今の自分に影響しているんですかね。
あとは高校の時、監督から『お前がプロになるなんて、月まで歩いていくようなもんだよ』って言われて。監督はきっと、たとえ表現でちょっと面白おかしく言ってたと思うんです。でも本気でプロになりたい俺からしたら、『月まで歩くってことは不可能じゃん』って思っちゃって。そのときは、『このままじゃプロになれない、頑張らなきゃ』って思ってたんですけど、その一つの言葉をいまだに覚えてるくらいだから、相当キツかったですね。傷ついたって言ったら大袈裟かもしれないけど」

そんなふうに、ひとつひとつの言葉を重く受け止めてしまうのも彼なりの理由がある。
「言葉を大事にしてるからこそ、人に言われる言葉をすごく重く捉えちゃうんです。ひとつの言葉が本当に、その人の人生を変えるとも思ってる。俺は、良くも悪くも言葉を選んで届けられるし、人の気持ちも汲み取れるけど、余計にその1個のことを考え過ぎちゃう」
そう話す彼は、小学生の頃から国語が大好きで、日本語そのものにも関心を持っていた。好きな音楽のジャンルも、まさかのヒップホップ。「意外ですね」と返すと、少し笑いながらこう言った。
「めちゃくちゃ言われます。バラード系聴いてそうとか、J-POPが好きそうとか。まあオールジャンル聴きますけど、ゴリゴリのヒップホップが一番好きですね。普通のJ-POPとかだと、ストレートな表現を使うことが多いけど、ヒップホップは言葉遊びがあるというか、ダブルミーニングが面白いんです」と、会話のなかで彼の意外な好みが聞けた。
気を遣いすぎてしまう繊細さも、一歩引いてまわりを見る冷静さも、どちらも彼らしい個性だ。その存在はチームの中で絶妙な緩衝材として、大きな役割を果たしている。
地獄すぎる365日
「俺、言葉大好きなので表現を選びたいんですけど、一番当てはまるのが"地獄"です。地獄って、苦しさの頂点の表現だと思うんですけど、結構みんな軽く使うじゃないですか。『うわ、明日練習とか地獄だわ~』とか。でも俺は、いやいや、そんなもんじゃないって言いたいです」
言葉にこだわる彼がそんなふうに表現したのは、大学卒業後に加入した松本山雅(以下、山雅)での日々のことだった。
「俺の時代がやっときた」ーー当初はそんなふうに思えるほど、山雅への加入は、自身のサッカー人生におけるハイライトだった。
「めちゃめちゃ辛いサッカー人生だったけど、『ここで報われるんだ!やっぱり頑張ってればいいことあるんだな』って達成感がありました。加入内定の記者会見でも、キラキラした気持ちで出たんです」

だが、その喜びは長くは続かなかった。天国から地獄へと突き落とされるような日々が、ここから始まる。
「練習参加の時に俺を高く評価してくれていた監督が、加入したタイミングで解任されちゃって。そこから新しい監督が来たんですけど、運悪く、自分がこうやって使ってもらえるんじゃないかってイメージしていたのと、正反対のサッカーが始まっちゃったんです」
最初のキャンプでは、厳しい練習のなかで「お前、そんなのもできねえのかよ」と怒号が飛んでくることも。とはいえ、まだそのときは堪えることができていた。
「俺本当に下手くそで、ずっとそうやって言われてきた人生だったので、その時は『まあまあまあ、頑張ろう』みたいな感じでした」
だが、その耐えもすぐに折れてしまう。なぜならば、そんなふうに怒られる日々が、1週間でも1カ月でもなくーー365日、ずっと続いたからだ。
「そこから『滉、ナイス!』なんて言われたことは一度もないです。毎日、『お前』って怒られていました。『お前が練習に混ざるとみんなに下手くそがうつるから、もう混ざるな』って、病気扱いみたいなことを言われたこともありました」
なんだかまるで、小学生のいじられっ子のような扱いだ。もちろん、彼は練習でふざけていたわけでも、反抗的だったわけでもない。真面目に、本気で目の前のサッカーに取り組んでいた結果がこれだった。
「普通のサッカー選手だったら、『見返してやろう』って思えるんだろうけど、俺の場合はそのレベルの扱いだったから、相当ダメージ受けてもう無になったんです」

それでも、次の日になれば変わらず練習はやってくる。
「練習のパスコンにしても、超緊張してました。監督にいつ何を言われるか、わからないから。トラップひとつにしても、ちょっとでもズレたりしたら『コーチ見てないかな?』ってずっと気にしてて。見てなかったら『あぶねー』ってほっとする。そんな毎日です」
そして彼が一番辛かったのは、紅白戦の時間。当然ながら、紅白戦に出られるのは22人。そこに交代要員が数人入ってメンバーを回していくのだが、全体で35人ほどしかいないため、どうしても5~6人は余ることになる。しかし、その数人は出番待ちすらなかった。
「グラウンドの端っこでボール回しをするだけ。紅白戦にすら1分も出れない。1年間、それがずっと続いたんです。中の人が怪我したら『あっ、滉ちょっと来て』って呼ばれて、出れてもほんのちょっと。
だからもう、選手として見られていないんです。本当に助っ人。端っこでなんかボール触ってる大学生、みたいな存在でした」
まるで練習生のような扱いではないか、そう言うと、彼は大きくうなずいた。
「それ、いい表現ですね(笑)本当にそう。そうなると、だんだん練習に行きたくなくなるんですよ。今までサッカーが大好きで、練習に行くのが楽しみでしょうがなかったのに、その1年間だけは本当に行きたくなかった」
紅白戦にすら出られないということは、公式戦の出場機会もない。それでも親からは「最近調子どう?」と、何気ない連絡が来る。「頑張ってるよ」と毎回返すものの、彼にいたっては調子も何もなかった。プレーする機会すらないのだから。
友人からは「そろそろ試合出ないの?(笑)」と、からかい交じりのメッセージが届くことも。「出れるわけないじゃん(笑)」と、自分も語尾に「(笑)」をつけて返すが、胸の内では何も笑えていなかった。

「若手は2部練もあって夕方にようやく終わるんです。でもそこからがまた苦痛なんですよ。夕方から夜にかけて、頭の中では『もう明日の練習が来ちゃう』って思ってるんです。普通の人は朝起きて『うわ、練習行きたくない』とか『仕事めんどくさいな』とか、よく思うけど、俺の場合はもう寝たくもないんです。
夜10時に寝たら、次の日の朝9時からの練習まで11時間あるじゃないですか。でも寝たら、それが一瞬で来てしまう。だからどんどん、『寝るのが怖い』って追い込まれていました」
彼の他に、3~4人ほど同じ境遇の仲間もいた。寮生活の中で毎日顔を合わせるが、その表情は日に日に暗くなっていくのがわかった。
「最初のうちは『俺らきついけど絶対頑張ってればいいことあるから、一緒に頑張ろうぜ』って励まし合っていたんです。でもその時期が終わると、次は愚痴を言い始める時期が来るんですよ。でも愚痴って、反骨心があるからまだマシなんです」
文句を言うということは、まだ心が動いている状態。でも彼らにはその先があった。
「最後には何も言わなくなるんです。『明日の練習、ダルくね?』すら、誰も言わない。高め合う→愚痴を言う→無になる。そんなフェーズがあるんです」

あまりにも彼の話がリアルだったので、苦笑してしまった。それは、当の本人も同じだった。
「でも、みんなにこの話をしても信じてもらえないんですよね。『山雅なんて、めっちゃいい環境じゃん!』って言われるので。だけど現場のリアルは全然違います。どん底ですよ。彼女にフラれたとか、大学受験に落ちたとか、そんなんもう『残念だったね』で終わるじゃないですか。俺はそんなもんじゃないです。本当に一本、曲できるくらい」
とにかく比類ないほどの地獄だった。山雅の話になった途端、それまで以上に言葉が止まらなくなったほどに。
「だから俺は、あの1年が良い経験だったとは思えない。『あの1年があったから成長できた』って思える人は気楽だなって思う。山雅での日々は、『いらない1年だったな』って思うくらい、本当にしんどかったです」
ここで、人生を変えに来た
そんな山雅での地獄エピソードを聞いたあと、ふとこんな疑問が浮かんだので聞いてみた。それでもよく辞めなかったですね、と。
「いや、辞められなかったんです。辞めたい、じゃなくて『もう明日辞めよう』って、何回も思いましたよ。でもその瞬間に、家族の顔が浮かぶんです」
プロになるまで、家族はずっと支えてくれた。金銭的な負担はもちろん、小学生の頃は毎日の送り迎え、そして大学まで通わせてくれた。
「3兄弟の3人目にして、やっと三男がプロになったー!って。自分で言うのもあれですけど、親からしたら誇りある子どもだと思うんです。
だから『こんなんでくじけていたらダメだ、絶対喜ばせたい』っていう気持ちが湧いてくるんです。もしこれが自分だけの人生だったら、キャンプの時点で辞めてましたよ」
今まで支えてくれた家族の存在を思うと、中途半端な決断は、とてもじゃないができなかった。

そしてとりわけ彼の頭に浮かんだのは、祖父の存在だった。
「別に俺の家庭って裕福じゃないんですよ。でもおじいちゃんは、いつも大事なタイミングでお金を援助してくれて。
本当はもっと強い関東の大学に行きたかったんです。東北だと仙台大が強くて、学費半額で誘われてたんですけど、富士大学が全額免除でいいって言ってくれて。プロは全く出てないけど、うちはお金がなかったから、『全額免除の大学に行って、プロになるのが一番の恩返しだ』って思ったんです。
でも俺、全額免除だったのに結局奨学金借りてるんです。わかります?どれだけ限界だったか」
そんな家庭環境だったゆえ、「練習がきつい」とか「監督が理不尽」だとか、そんな理由で簡単に辞めるわけにはいかなかった。
「あまりにも無責任すぎるなって思ったんです。ここで辞めたら、”恩をあだで返す”って、まさにこの言葉通りだなって。頑張れたというよりは、頑張るしか方法がないし、耐えるしかなかったですね」

そう語ったあと、「それで言うと」と前置きをして、渋谷に加入する前の話も教えてくれた。
「実は今年も、もうサッカーやらなかったかもしれないんですよね。山雅でクビになって、J3でもJFLでも通用しなくて、『俺に何ができるの?サッカーやる意味あるのかな』って。
でも逆に、『今サッカーを辞めたら、何が残るんだろう?』って思えたんです。第二新卒の年齢だけど、仕事もしてこなかった俺のことなんて、どこも雇ってくれないので」
そう自分を見つめ直した末に、トライアウトを受ける決断をした。とはいえ、「ここで契約を勝ち取ってやる」と意気込んでいたわけではない。辞めるにしても、トライアウトぐらいは人生経験として受けておこう。納得したうえで、自分の中で区切りをつけて辞めよう。そんな軽い気持ちだった。
ところが、予想と反していくつものチームから声がかかった。この2年間、まったく必要とされなかったはずの自分に、お金を払ってでも来てほしいと言ってくれるチームがあった。その事実にようやく、自分にも価値があるかもしれないと思えた。そんな実感が湧いた後、渋谷からのオファーが届いた。
「なんだこのチームは!」すぐにビビっときた。渋谷の近くで働けて、チームにも勢いがある。加えてクリエイティブの面にも惹かれた。他にも、条件の良い地方クラブからもオファーがあったが、迷わず渋谷を選んだ。
「このチームだったら、今までの苦しかったサッカー人生を、もしかしたら全部なかったことにできるかもしれない、そう思ったんです。この渋谷で、田舎者の少年を変えたろうと。いろんな人やものに触れて、人生を変えよう、全部ひっくり返してやろうと決めて来ました」

実際、渋谷での生活は想像以上の充実さに溢れていた。
「練習はめちゃめちゃハードにできるし、仕事も本当に恵まれている職場だし、毎日超楽しい。間違いなく、正解の道を選びましたよ。仕事もサッカーも100%でやってます」
思い切って都会に来てよかったですね、そう言うと彼は少し笑ってこう返した。
「でも、賭けでしたけどね。もし渋谷でも試合に出られなかったり、職場の環境が悪かったりしたら、きっと今頃埋もれて死んでいたかもしれない。
まだ半年しか経ってないけど、ダントツで『今年が一番いい1年』って言えます。人生、マジで今がピーク。本当に良い出会いをしたし、運が良かったと思っています」
そう語る彼の顔は、過去に地獄を見たとは思えないほど、晴れやかだった。だが、ここまでたどり着いたのは、ただの運のおかげだとは思っていない。ある意味、”必然”だったという。
「山雅での地獄を考えたら、これぐらいの運が流れてこないと人生平等じゃないので(笑)だからやっと、これで回収できました」
”回収”だったと軽く言ったが、失ったものも、耐えてきた時間も、決して小さくはなかったはずだ。だからこそ、こう言えるだろう。ここは、自分の力で勝ち取った場所だと。
"魂プレイヤー"の正体
今までの話からわかるように、志村はまだ若い世代に入るが、それに釣り合わないほどの多くの苦しい経験を乗り越えてきた。その中で彼がたどり着いたのは、チーム作りと言おうか、いやそれだけではおさまらない、彼にしか持ち得ない信条だった。
「俺はこのチームで、もう誰のことも置いていきたくないんです。誰もひとりにしたくない。もし誰かにめちゃめちゃ怒られている選手がいたら、絶対助けてあげたいって思う。サッカーを嫌いになるって、本当にしんどいことだから。そんな思いをする選手は、ひとりも見たくないんです」

そんな思いは日々の行動にも表れていた。たとえば、同じく新加入で、チーム最年少の宮坂拓海のこと。
「ミヤは最初のころ、(青木)友佑が来るまでは同世代がいなかったんです。一番近い年齢でも俺らで2つ上。だから自然とひとりでいることが多くて。2人1組の練習のときも、全部俺からミヤのことを誘っていました。練習前にも『最近、仕事どう?』って話しかけたり。
今は友佑が来て、さっきも2人で一緒に帰ってたし、もうそこまで気にしていないですけど。でも多分、ミヤも最初は俺と同じように思ったと思うんです。『なんだこのチーム、みんな口悪いし、髪型も派手だし、怖いよ……』って(笑)」
「本人は覚えているかわからないですけどね」と付け足しながらも、志村は宮坂のような選手に常に気を配っていた。

「孤立しそうな選手を絶対見放さない。絶対にひとりにしないっていうことは、すごく意識しています。そういう役割を、影武者で、黒子でやりたいんです。来年、自分がどこのチームにいるかまだ分からないですけど、どこに行っても大事にしたいことです」
その優しさは、普段静かに隠れているものだが、時にそれが抑えきれずに表に出る瞬間がある。
「誰かが傷ついていたり、傷つけられそうな瞬間にスイッチが入ります。自分が相手に煽られてもなんとも思わないんですけど、仲間がやられてたらマジで冷静さがなくなっちゃって、人格が変わります。試合中、誰かが削られていたら俺のこと見てください。めちゃくちゃキレてるので(笑)。
今は試合中の話で例えましたけど、友達が誰かに、言われる形じゃなくても何かされたりとか、それで落ち込んでいたら、自分の中からエネルギーがバッと出ちゃうんです」
気持ちで、パッションで魅せる選手であることはわかっていたが、この言葉を聞いて、またひとつ、彼のプレーの見どころが増えたような気がした。

そして、こういう感情が生まれるのも、やはり彼にしかない「痛みの記憶」があるからだ。
「震災のことも、山雅での日々も、同じ経験は絶対、他の選手にはさせたくないんです。あの経験があったからこそ成長できたって、簡単に思わせたくない。俺は人の痛みが分かるからこそ、いらない苦しみは絶対排除したいんです」
それはつまり美化させたくないということか?ーーそう問いかけると、彼は即座に力強くうなずいた。
「美化は本当に良くない。美化なんて、結果論ですから。たまたま結果を出した人が、『あの経験よかったよね』って思うだけ。結局、結果が出なかった人たちの声って、誰にも聞かれないわけじゃないですか。そういうふうに苦しい思いをした人たちからしたら、ただのいらない思い出でしかない。だから自分は常にそういう視点でいますね」

だからこそ、周りの人間には苦しい思いをしてほしくない。むしろもっと幸せになってほしいと願う。
「自分に関わる人が全員幸せな状態が、自分にとっての頂点です。家族はもちろん、例えば俺がJ1の選手だったら、スタジアムにいるサポーターやスポンサーさんの全員が自分のゴールによって幸せを感じてほしい。でも、自分の関わる人間が全員幸せだなんて、絶対無理じゃないですか。だから頂点なのかもしれないです。絶対たどり着けない感じが。
でも自分に関わる人全員が幸せな状態が、自分にとっても一番幸せなんです。全員が気持ちよく練習してたり、誰かがナベ(渡邉尚樹)の歌で誕生日にお祝いされて笑顔になったり、渋谷がJ1でリーグ優勝してみんな喜んでいたら、それも頂点。
だからいろんな頂点を取りに行きたいですね。同世代の2000年生まれのチームメイトの7人、家族、彼女……身近にいる人から輪を大きくしたいです」
あくまで冷静さを保ったまま語るが、内に秘める熱は誰よりも熱い。過去の経験を燃料に変える覚悟と、闘志は本物だ。
「ハートが熱い人間に育ったのは、震災のおかげ。結局そこが着地点ですね。俺のハート、激アツですよ!」

震災で、サッカーで、人生で、何度も地獄を見た。「もう無理だ」と思った夜は、一度や二度じゃない。それでも歩みを止めなかったのは、誰よりも”誰かの痛み”に気づける自分でいたかったから。ただの共感者ではなく、あの痛みを知る当事者として。そのハートが燃え続ける限り、彼は絶対に誰も見捨てない。
これが志村滉という、”魂プレイヤー”だ。
note : 志村滉|note
取材・文 :西元 舞
写真 :福冨 倖希
企画・構成:斎藤 兼、畑間 直英
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#2 頂点を目指す、不屈の覚悟。全ては世界一の男になるための手段ーー水野智大
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#4 這い上がる本能と泥臭さ。サムライブルーに狙いを定める渋谷の捕食者ーー伊藤雄教
#5 問いかける人生、答え続ける生き様。「波乱万丈な方へ向かっていく。それがむしろ面白い」ーー坪川潤之
#6 サッカーが導く人生と結ぶ絆。ボールがくれた縁を、これからも。ーー岩沼俊介
#7 楽しむことを強さに変えて。夢も、欲も、まっすぐに。ーー小沼樹輝
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#13 憧れた側から憧れられる側へ。ひたむきな努力が導く、まっすぐな未来ーー大越寛人
#14 楽しいだけじゃダメなのか?渋谷イチの苦労人が語る「俺は苦しみに慣れちゃってる可能性がある」ーー高島康四郎
SHIBUYA CITY FC
渋谷からJリーグを目指すサッカークラブ。「PLAYNEW & SCRAMBLE」を理念に掲げ、渋谷の多様性を活かした新しく遊び心のあるピッチ内外の活動で、これまでにないクリエイティブなサッカークラブ創りを標榜している。
渋谷駅周辺6会場をジャックした都市型サッカーフェス「FOOTBALL JAM」や官民共同の地域貢献オープンイノベーションプロジェクト「渋谷をつなげる30人」の主宰、千駄ヶ谷コミュニティセンターの指定管理事業など、渋谷区での地域事業活動も多く実施している。
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