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フェイクじゃ終われない「もっと突き詰めていれば…」吹っ切れた先に見えた景色ーー河波 櫻士 【UNSTOPPABLES】 #23

2025年8月19日

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「どこかで甘えてたから、あらためて気づかされたし、図星を突かれたようで正直悔しい。だから、今はもっと見返したい気持ちが強い」


自他ともに認める楽観的な性格の河波櫻士。学生時代のやんちゃな一面から、プロでの苦悩の日々まで面白いエピソードが尽きない。そんな彼にも、少しずつ心境の変化が訪れている。これまで胸に刻んできた恩師の言葉を糧に、この渋谷で次のステップに挑もうとしている。


【UNSTOPPABLES~止められない奴ら~】

昨シーズン、関東2部への昇格を決めたSHIBUYA CITY FC。その栄光の背後には、ただの勝利以上のものが隠されていた。選手たちの揺るぎない自信と勢いは、彼らの人生に深く刻まれた歩みから来ている。勝利への執念、それを支える信条。止まることを知らない、彼らの真の姿が、今明らかになる。


第23回は、渋谷のスピードスター・河波櫻士。彼ならではの切望する夢の話や数々のキャッチーなエピソードを交えながら、この渋谷で再び結果を残そうとする覚悟に迫る。


河波 櫻士(かわなみ・おうじ)/ MF

2001年1月12日生まれ。北海道函館市出身。174cm、67㎏。アストーレ鍛神FCから函館ジュニオールFC、スプレッドイーグルFC函館と地元のクラブで育ち、札幌創成高等学校を経て、関東学院大学に進学。3年時には横浜F・マリノスの練習生として、Jエリートリーグに出場した。2023年にサガン鳥栖でプロキャリアをスタートし、翌年 FC岐阜へ期限付き移籍。今季より、SHIBUYA CITY FCに完全移籍で加入。Jリーグでも引けを取らない圧倒的なスピードと縦への推進力を持つサイドアタッカー。



マイノリティのために


当時、サガン鳥栖からFC岐阜へ期限付きで在籍していた河波櫻士。岐阜での公式戦出場は11試合にとどまり、鳥栖時代のルヴァンカップ2試合では、いずれも途中出場。ピッチに立てない日々が続く中、なんとしてでも岐阜で結果を残し、鳥栖に戻って先発の座を掴み取ることを目指していた。


その原動力は、「鳥栖に戻って『マイノリティ』をピッチで聞く」という夢だった。


『マイノリティ』とは、サガン鳥栖の選手入場時に流れるチャントのひとつ。先発のメンバーとしてピッチに立つ選手だけが体感できる特別な楽曲だ。河波はその魅力を、実際に携帯で動画を再生しながら、「マジで生で聞いたらわかるよ。かっこいいんだよ、これが」と、目を輝かせ自信満々に紹介してくれた。


渋谷に加入してからの、プライベートで訪れた大宮アルディージャとの試合では、久しぶりに耳にした『マイノリティ』の響きに胸が熱くなったという。


しかし、大卒1年目に加入した鳥栖でも、岐阜でも、その裏には度重なる怪我との闘いがあった。特に鳥栖で過ごした日々については、「面白くなかったというか、うまくいかない時期だった」と、もどかしさばかりが募っていた。



大学時代、初めて鳥栖の練習参加に行ったときのこと。プロのレベルの高さを目の当たりにし、「自分は相手にされないだろう」と思いながらも、「やれるだけやろう」と覚悟を決めて臨んだ。そんな中、当時監督の川井健太氏からかけられたひと言が、今も印象に残っている。


「お前さ、練習参加に来て人と同じことをしてても、俺の目にはつかないぞ」


その時はクロス練習の真っ最中だった。サイドの選手であれば、クロスを上げるのが普通の流れだ。サイドのポジションである河波も、本来ならそうするはずだった。だが、川井監督のその言葉を受けた瞬間、意識が変わった。クロスを上げることをやめ、ひたすらドリブルで突き進んだ。


「今思えば、ただのアホなんだけどね。でも俺、素直だから『人と違うことをしないといけないんだ』って思っちゃって」と、どこか呆れたように当時の自分を笑う。


紅白戦や試合でも、そのスタイルは変わらなかった。サイドでボールを受ければ、とにかく縦に仕掛ける。単調に見えるほど同じ動きを繰り返しながらも、ちょうど調子の波が上向いたこともあり、当初1週間の予定だった練習参加は延長されることになった。



しかし、延長された練習参加の最終日の練習試合中に、アキレス健を負傷してしまう。最後までチャンスを活かしきれなかった悔しさが、一気に押し寄せた。まさに、全てが止まったかのような絶望の瞬間だった。


その後クラブハウスに戻り、応急処置を受けていたところに川井監督が現れる。サッカーを続けたいのかーーかけられた問いに、河波は迷うことなく頷いた。


「俺はお前のことを取ろうと思ってる。でもプロの世界だから、俺が全部決めることではないから」と、一瞬希望の光が差したかに思えたがすぐに現実に戻された。やっぱりダメかーーもう諦めるしかなかった。


だがそんな矢先に、思いもよらぬ知らせが届いた。正式に鳥栖への加入が決まったのだ。期間を延長してもらったのにもかかわらず、その希望を棒に振ったと思っていただけに、この展開は衝撃だった。


とはいえ、喜びに浸る間もなく、迎えた最初のキャンプはリハビリからのスタート。思うようにプレーする機会は限られていたうえに、復帰後には肉離れを発症してしまう。


アキレス健を切るまでは大きな怪我とはほぼ無縁だったが、筋肉量の低下も影響してか、身体はこれまでのようには動かなくなってしまった。そこからは、まるで歯車が狂ったかのように、怪我を繰り返す日々が続いた。


その頃、韓国遠征が控えており、チーム全員が参加する予定だった。しかし、河波とユース出身の2人の選手を合わせた3人だけが、メンバーから外れることに。日本に残って練習することが決まったときの悔しさは、今でもはっきりと覚えている。


「コーチと怪我人の先輩と、5人でクラブハウスで練習して。もう、やばかったね」


もちろん、原因が自分自身にあることはわかっていた。応援してくれる家族や仲間の存在があったからこそ、表立って弱音を吐くことはできなかった。それでも心の奥では、ただひと言ーー「楽しくない」。


あくまで淡々と振り返るが、当時の自分にとってはやりきれない苦しさがあった。夢だった『マイノリティ』を聞くことも叶わなかった。




やんちゃなキャプテン、2度の奉仕活動


苦しい怪我に加え、思うように結果が残せなかったことに起因しているのかーー河波には自分でも認める、ある欠点があった。


それが「サボり癖」だ。


岐阜時代の練習後の自主ランニングでは、他の選手たちが最後まで走り切るなか、河波だけが途中で足を止めてしまうことがあった。そんな彼を見かねて、フィジカルコーチからは「妥協しすぎ」と指摘をされたこともある。


こんなふうに「サボり」と聞くと、マイナスなイメージを持たれがちだが、河波いわく、捉え方次第ではプラスに働くこともあると話す。


たとえば今季リーグ第4節、COEDO KAWAGOE F.C戦。素早いテンポで速攻を仕掛けてくる因縁の相手に対し、前半は苦しい展開が続いた。そんな中、64分に河波が待望の同点弾を決めた。


「俺、けっこう体力が持たないタイプなんだよね。だからあの試合も、『絶対流れが来る』って信じてて、それまではずっとサボってた(笑)でも、ここぞというときに力を出せるのが自分の良さ。サッカーでも仕事でもそう。いい具合に力を入れたり、抜いたり。まあ、悪い意味ではサボってるんだけど」


そんな楽観的な思考は彼の長所だが、これまでの人生を振り返ると、それは悪い方向に傾いてしまうことのほうが多々あった。その片鱗は学生時代から垣間見えており、サボり癖というよりも、どちらかといえば自由奔放な振る舞いが目立っていた。



高校3年時、河波はキャプテンを任されていた。「俺しかいなかったんだよ。マジでやりたくなかったけど、俺らの代はやんちゃなやつが多すぎて。『もう、俺らじゃなくていいんじゃね?一個下でいいっしょ』っていう話し合いをみんなでしたんだけど、それを監督に言ったら止められて、結局俺がやることになった。やる気は本当になかったね」


しぶしぶ引き受けたキャプテンだけに、当然ながら意気込みは薄かった。そのせいか、チームのルールから外れるような行動もあった。


たとえば、遠征時のルールではアイスクリームやカップラーメンなど、いわゆるジャンクフードを食べることが禁止されていた。にもかかわらず、こっそりコンビニで買うこともしばしば。ある日、カップラーメンを手に持っていたところ、背後に監督がいたことに気づかず、叱られたことがあった。


さらに、選手権を目前に控えたある日、思わぬトラブルが降りかかる。


友人のひとりがお店の店員に軽口を叩いてしまったことから、ちょっとした問題に発展してしまった。河波は偶然その場に居合わせただけだったが、翌日には監督室に呼び出されることになる。


「俺ともう1人サッカー部のやつがいたんだけど、『お前らはクビだ』って言われて、そいつはそのまま帰って部活を辞めちゃって。でも俺はキャプテンだったし、さすがに簡単に辞めるわけにはいかなかった」


そんな河波に課されたのが、落ち葉拾いやグラウンドの清掃などの2週間にわたる奉仕活動。練習には一切参加させてもらえず、黙々と作業を続ける日々。選手権前の大事な時期だっただけに、納得のいかない思いも大きかった。


「そしたらキーパーのやつが監督に言ってくれたんだよ。『櫻士はあんなにやってくれてます。それに、あいつがいなきゃ勝てないですよ』って。そしたらそいつが笑顔で落ち葉拾いしてる俺のところに走ってきて、『もう練習に戻っていいよ~!』って。俺も、めっちゃ笑顔で戻った(笑)」


なんとか奉仕活動から解放され、復帰を果たした選手権では、数年ぶりに北海道ベスト4という結果を残した。



引退後はサッカーを続けるつもりはまったくなかった。大学進学も考えておらず、地元の郵便局に就職しようと思っていたからだ。当時のキーパーコーチが実際に郵便局に務めており、評判も良かったことから「それでいいかな」と深く進路を考えることはなかった。


そんなとき、同じく地元・北海道出身で、先に関東学院大学に進学していた村上悠緋(現・愛媛FC)から練習参加の誘いを受ける。結果的に合格し、気づけば大学でもサッカーを続けることになった。


初めての関東でのひとり暮らしが始まり、新たな環境、そして何より周囲のレベルの高さに圧倒された。同期には、現在渋谷でともにプレーする小沼樹輝の姿もあった。小沼は鹿島アントラーズユース出身であり、他にも全国的に実力のある選手ばかりが揃っていた。


「みんなうまいし、マジで焦った。『俺、場違いだったかな?』って。でも、北海道から出てサッカーを続けるって決めたからには、プロになりたかった。周りにもそういう意志を持っている人も多かったし」



周りの仲間から刺激を受け、自分なりに必死に食らいついていたが、ここでもまたひとつ事件が起こる。ミニゲームの後に行われた罰走トレーニングで、理不尽だと感じた河波は思わずコーチに不満をぶつけてしまった。


当然のごとく監督に𠮟責され、マネージャーから「できることを探したほうがいい」と助言を受ける。こうして、大学でも2週間の奉仕活動が始まった。


毎朝一番に来て門を開け、準備をする。練習中は選手が脱いだジャージを畳み、グラウンド周りの落ち葉を拾った。アウェイの練習試合では、副審や雑務も一手に引き受け、なんとか真面目にやりきった。


「ジャージが落ちてたから拾いに行ったら、監督に『そういうのはやらなくていい』って言われて、『はあ!?』みたいな(笑)そんなこともあったなあ。


あ、でも問題児じゃないよ。自分がよくないと思ったことを、ちゃんと言っちゃう好青年なだけ。よく言えばね」と、冗談交じりに振り返った。




”フェイク野郎”と言われて


こんなふうにやんちゃな一面が目立つ河波だが、大学卒業後に当時J1のサガン鳥栖に加入できたのは、それだけの努力があったからこそだ。


大学時代、一人暮らしをしながらも食事管理には徹底的に気を遣っていた。買い物では、商品の裏に記載されている成分表を細かくチェックし、栄養素をグラム単位で計算して、携帯にメモをしていたという。


他にも筋トレはもちろん、低酸素やアジリティ向上のためのトレーニングも行い、身体が小さいという自らの課題と向き合っていた。家も近く、常に行動を共にすることが多かった小沼とは、毎日一緒にジムへ通い、切磋琢磨し合っていた。


「俺、めちゃくちゃこだわりが強かったんだよ。何かにハマったら、自分のことをとことん分析して、試合にも出られていないのに『どうすればプロになれるかな』って考えてた。毎日、やるべきこともちゃんとやってた。根は真面目だからね」


やがて念願のプロ入りを果たしたものの、結果的には鳥栖、そして岐阜を満了で離れることになった。その後、大学時代の監督に連絡を入れると、電話口からは悲しそうな声が返ってきた。それと同時に、胸に刺さる言葉も続いた。


プロに入って、もっとやりたいことがあったのではないかーーと。


「俺的には、自分なりに考えて行動してきたつもりだった。でも監督には、『やってるつもりだったかもしれないけど、全然足りないし、遊んだりしてたんじゃないの?それじゃあ全然意味ないよ』って言われた」



さらに追い打ちをかけるような、こんなひと言も飛んできた。


「『まあ、お前はフェイク野郎だよ』って。あれは結構刺さったし、悔しかった。やるべきことはやってたし、納得はいってない部分もある。


でも確かに、自分の中でも単純に量が足りなかったと思う。あとは、もっとサッカーと向き合う時間かな。今だったら午後は仕事があるから遊ぶ暇もないけど、当時は何もない時間がほとんどだった。やるべきことはやってたけど、もっと突き詰めていれば違ったのかなって思う。


どこかで甘えてたから、あらためて気付かされたし、図星を突かれたようで正直悔しい。だから、今はもっと見返したい気持ちが強い」


耳が痛い指摘だったが、それは間違いなく的を射ていた。だが、その言葉が「このままでは終われない」という思いを、より一層心に強く刻んだ瞬間でもあった。




もう、やるしかない


今季、渋谷に加入してから早くも半年あまりが過ぎた。河波にとって、加入から約2か月後に訪れた出来事が、生活に大きな変化をもたらした。それは、今年2月に待望の女の子が誕生し、新しい家族ができたことだ。


この企画名にちなんで「誰にも止められない瞬間」を尋ねると、「犬と自分の子どもと一緒に遊ぶことかな。仕事が終わって家に着いて、戯れてる時間は夢中になってるかもしれない」と答えた。


生後5か月の愛娘を前にすれば、自然と顔も声もゆるみっぱなしになる。すでに彼の心はすっかり支配されていると言っても過言ではない。


「やばいよ。超かわいい。娘と話すときは、自分でもキモイって思うくらい、声のトーンがめっちゃ上がるもん」とニコニコした顔で嬉しそうに語った。



だが、新しい家族ができたことに加え、渋谷という新天地での生活など、多方面で大きな変化があったのにもかかわらず、本人は「特に変わっていないかな」とあっけらかんと話す。


どうやら周囲からは「お父さんに見えない。もっと自覚してちゃんとしろ」と言われるほどだという。


自覚は薄いと笑いながらも「でも、家族でどこかに遊びに行って行ったりするときは、『ああ、俺お父さんなんだな』って思うよ」と話す顔には、父親としての優しい表情が浮かんでいた。そして、自分の中でのありたい姿もしっかりと持っている。


「なんか、余裕のある男になれるようにお金持ちになりたい。お金があったら何でもできるじゃん。家族を連れて旅行にも行けるし。仕事でもちゃんと稼いで、家族を幸せにできればいいから。まあ、お金持ちになりたいというより、今はそこかな」


一家の大黒柱として語る一方で、やはり一人のサッカー選手であることは忘れていない。野心と闘志は人一倍だ。Jリーグの臨場感あふれるスタジアム、そしてサポーターが歌うかっこいい応援歌の中でプレーするかつての同期たちの姿を見ると、悔しさが募るのはもちろん、自分も再びあの舞台に立ちたいと熱望する。


そんな気概を抱きながらも、「でも現実的には、まずここで結果をもっと出さなきゃいけない。渋谷はJリーグのチームと練習試合をしたり、いろんなチャンスがあるじゃん?だから、そういう時のためにいつでも準備をしておくのが大事だなと思ってる」とあくまで冷静に語る。



毎日やるべきことは続けてきた。それでも叶わなかった景色がある。だからこそ、同じ過ちは繰り返したくない。特別な理由があるわけではないが、渋谷に加入してからの心の持ち方は確かに変わった。


「俺からサッカーを取ったら何も残らないって思ってたけど、渋谷に来ていろんな人と出会って、『サッカーだけがすべてじゃないな』って心のどこかで思えるようになれたのが、変わったところかも。


だからいい意味で、Jにいたときよりも吹っ切れた。もうどこに行っても、やるしかない。変な話、ここでもいつ満了になるかわからないから。でもそんなの気にしてないし、今はめっちゃ楽しいし、『どうなってもいいや』って思ってる」


最後には「まあ俺、基本マジ何も考えてないからね」と子どものような無邪気な笑顔を見せる。曇り空が晴れたのも、もともとの楽観性も相まってだが、何よりこれまで苦汁を舐めてきた経験があるからだ。


余計なプライドも、意地も、今はもうない。やるせない日々を過ごしてきたからこそ、より強くこう言える。


「今までちょっとうまくいかない時とか、『サッカーしたくない』って思ったけど、そういうことを思っても実際全部がうまくいかなかった。でも、楽しいって思うと自然と自信も出てくるし、それがプレーにもつながってるから、そこだけはやり続けたいと思う。サッカーはずっと好きでやってるから」



くすぶった過去も、今はすべてが反動力。大切な存在を胸に、渋谷の地で再スタートを切る。今度こそ、結果を叩き出し、後悔も反省も覆すだけだ。



取材・文 :西元 舞 

写真   :福冨 倖希

企画・構成:斎藤 兼、畑間 直英

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#4 這い上がる本能と泥臭さ。サムライブルーに狙いを定める渋谷の捕食者ーー伊藤雄教

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#17 SHIBUYA CITY FCに人生を懸けた男「俺をこんなにも好きにさせた、このクラブが悪い!」ーー植松亮

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#19 器用貧乏?いや、今は違う「俺の中に神様はもういない」ーー青木竣

#20 考えたからこそ、”あえて”何も考えない「今日もやっちゃおーよ」ーー小関陽星

#21 どんな場所でも、俺はここで貫く「納得いかないことに対しても、納得いくまでやり続ける」ーー佐藤蒼太

#22 渋谷で語る、再びの覚悟とサッカー人生の答え「僕は恵まれている。もう、それしか言えない」ーー吉永 昇偉


SHIBUYA CITY FC

渋谷からJリーグを目指すサッカークラブ。「PLAYNEW & SCRAMBLE」を理念に掲げ、渋谷の多様性を活かした新しく遊び心のあるピッチ内外の活動で、これまでにないクリエイティブなサッカークラブ創りを標榜している。

渋谷駅周辺6会場をジャックした都市型サッカーフェス「FOOTBALL JAM」や官民共同の地域貢献オープンイノベーションプロジェクト「渋谷をつなげる30人」の主宰、千駄ヶ谷コミュニティセンターの指定管理事業など、渋谷区での地域事業活動も多く実施している。


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